開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

自分はエゴイストだった

おそらくぼくのブログの読者は、ぼくを自分にしか関心のないエゴイストだと、とうに気づいていることと思う。恥ずかしながら自分だけは都合のいいように自分を考えている。自分の死後に日本の人々の暮らしがどうなっていようと関心がなかったことに、今日初めて気づいたような気がする。今の若者の置かれている環境の生きづらさを可哀想に思いながらも、まともには感じていなかったと思う。考えてみればおかしなことではあるのだけれど、昨日のブログで文学の終わりという問題を取り上げてみて、文学の行方が気になっていた。今日の読書会で朝井リョウの小説を取り上げて、今の若い作家の置かれている現実に想いを馳せていた。ブラック企業で働く若者もいるし、いじめに苦しんでいる子供や弱い立場の人たちもいる。ウクライナは戦時下でもある。そんな現状から新たな文学は生まれるのだと思って、自分は初めてリアルな苦しみを感じ始めたようなのだ。自分たちには子供がいないこともあるのだろうが、現実の生の苦しみからは一定の距離を置いていて、子供の将来じゃなく、文学の行方を案じることから現実を見るという転倒した態度が自分にあったわけだ。小説の方がリアルに感じるバカの壁が長い間ぼくの感性をおかしくさせていた。でもその壁を取り払ったら、自分も崩れてしまうかもしれないとも思う。