開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

柄谷行人「トランス・クリティーク」から

今の状態はとても良好だ。健康を実感している。働いておらず、外から強制されるものがないということの素晴らしさを味わっている。エアコンの効いた部屋で、空腹を感じることなく、老いを感じもせずことさら無力を感じることなく、肯定的に思考できる自由感のもとに世界と歴史を読み、知ったことで受ける変化を書き、人生を楽しみ、自制的に自尊心を養うことで、闘う人々に寄り添い続ける生き方をしたいと思う。柄谷行人をここ数日読み続けている。ブルジョア独裁下にあることを否定的に措定できる知性の人は、そのことは「喩」であると言う。それを実体と捉えると直接的暴力の闘いを強いられ、敗北の悲惨に至る。これまでの左翼の陥ってきた謬見をトランス・クリティーク思考によって正し、カントとマルクスが切り開いた合法的コミュニスムを論じてくれる。そう、カントもコミュニストだと言う。ところであなたは以下の、ブルジョア独裁の定義に賛同されるだろうか?

ブルジョア独裁」とは、ブルジョア階級が議会を通して支配するということではない。それは、「階級」や「支配」の中にある個人を、「自由」な諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが「ブルジョア独裁」なのである。議会選挙において、諸個人の自由はある。しかし、それは現実の生産関係における階級関係が捨象されたところに成立するものである。実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などあり得ない。つまり、経営者が社員の秘密選挙で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々に選挙されるということはない。人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。