開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

フィクションに生きる指針を求めるな

ぼくの人生は幸いにも不幸に遭うことはなかった。必ずしも意に沿った就職先ではなかったが、定年までなんとか勤めることも出来た。詐欺に引っかかることもなく、犯罪に引き込まれることもなかった。予期せぬ社長からのパワハラや屈辱的な人事にも、鬱になりかけたが自力で乗り越えることができた。自力といえばカッコいいが、周りに相談できる人やアドバイスをくれる人がいなかったということだ。本に頼るしかなかった。一人でもがいていて、唯識トランスパーソナル心理学に出会った。竹田青嗣を通じて西洋哲学にも馴染むことができた。その時は小説などのフィクションには助けられなかった。小説を読むようになるのは、定年退職後の次の人生を始めようとし出してからだ。その時は退職金や年金支給の目処もあって、経済的に安定していた。仕事をしなくても蓄えはあった。サラリーマンの間は、職を失えば生活は不安定になるリスクがあった。危機の時、唯識や心理学、西洋哲学といった理論が救いになって、小説などのフィクションなどには目が向かなかった、という事実には示唆するものがあると思う。余裕が出来た時に、フィクションにも手が届いたということだ。実際のところあくまでぼくの場合であるが、本当に心の支えになって、生きる指針になるのは学問の方で、フィクションを使う文学の方ではなかったという事実だ。それなのにこれまで、意識の上では小説に生きる指針を求めていた。村上春樹大江健三郎丸山健二中上健次などの小説にそれを求めてきたのは、原理的には間違いだったかもしれない。果たしてそう言えるのか、ふりかえって考えてみたい。