開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

無垢のやさしさに還る

あの頃には何もなかった。だからどんな小さなものにも、その世界に入ることができた。何もかもが初めての出会いだった。少女の唄はぼくの全てを満たした。何にも置き換えることのできない、19の早春。真夏の午後の静寂。黄金の夕陽に映える海。どうしてよみがえるのだろう。決して消えることのない記憶に匂いや頬を打つ風や未経験のはずの悲しみまで。世界から切り離されて遠ざかるぼくを見つめ返すクラスメイトのY。あれは馬鹿げた友情とは見なさない。あの時以来お会いしてないけれど、あなたは今どうしてますか?どんなに夢のつづきを追いかけても、お礼の言葉をいうことができない申し訳なさに、今更のように苦悶する。多分別れの現実がどいうものか想像できなかったのだろう。与えられていた時の無償の豊かさに気づけなかった。失うことの不可逆的な流れに追いつくすべを知らなかった。無知と孤独と無情の定めが恨めしい。忘れるためになし崩しの仕事にいつも埋没した。褒められたやり方ではなかった。失ったものを取り戻すのに、書くことをおぼえて大人になった。言葉に閉じ込めて、言葉に寄り添ってぼくはやさしさに目覚めた。