自分は高齢者だと思っていないが、客観的にはどうしても高齢者の部類になる。高齢者だとして人生前向きに前進するという意識だと、老化に向かうのだろうか?前進すればするほど終末に近づく。生物学的には衰えることはどうしようもなさそうだ。芸術の場合はどうなのだろうか。小説は作家の年齢とともに、「成長」して円熟の境地に至るのだろうか。前よりも後の方が作品として「成長」していると言えるだろうか。作家本人は絶えず上というか深みというか、挑戦し続けるだろう。村上春樹や村上龍の場合は、最新作は代表作を超えているようには思えない。カントやヘーゲルやマルクス、サルトル、フーコーなどの思想家の仕事は、初期から晩年に至る過程で前進し続けているように思える。柄谷行人も前進し続けていると思える。音楽家の場合はどうなのだろう。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ショパン、シューマン、ドビュッシー、ベートーヴェンなど、やはり初期と中期、晩年と「成長」がある気がする。ミュージシャンはどうか。マイルスやコルトレーン、ビル・エヴァンス、マッコイ・タイナーなどJAZZについては、「変遷」はあっても「成長」と言えるかは微妙だ。ユーミンや五輪真弓や井上陽水なども「変遷」であって「成長」と言えるだろうか。どうやら成長し続けるのは、思想や理論や科学などの学問領域だけのように思える。表現の領域では、自分の身を削り続けねばならないからだろうか。理論領域では、自分自身を客観化する必要があるからだろうか。理論においては正誤が厳しく問われる。そもそも矛盾してはいけない世界だ。アンチノミーも論理的に解決されなければならない。ところで、今のぼくは表現か、理論かどちらに生きようとしているのだろうか?最近、トロツキーの「ロシア革命史」を読み始めている。歴史の領域ではやはり後者だと思える。プーチンはロシアの歴史を前進させたのか、後退させたのだろうか?