野露読書会の藤井と申します。今回二つのテキストを読んでどちらの読書会に参加するか迷いました。結局「ドライブ・マイ・カー」にしたのは読後感がとても良かったからでした。主人公が小説の中の日常に戻って、生きる希望が感じられて終わるからでしょうか。ちょうど小説を読み終わって日常に戻る感じとうまく同調したのだと思います。
主人公の家福は飲酒運転と緑内障の兆候もあって交通事故を起こし、運転手を雇うことにしました。その時もう60歳近くになっていました。その運転手はみさきという24歳の女性でした。この若い、自分の娘ほどの女性に運転を任せる、という設定が「ドライブ・マイ・カー」という題になっていると思いました。彼女の運転は一定のエンジン回転を保ち、シフトチェンジを感じさせないほど滑らかなものでした。家福は毎日職場と自宅を彼女の運転する愛車サーブで送り迎えされているうちに、リラックスしてプライベートなことも打ち明けるようになります。
家福は29歳で音という女優と知り合い30歳で結婚して、子供ができますが生後3ヶ月で亡くなります。音は子供がなくなると失意からもう子供は作らないと「宣言」します。音が家福に知られないように不倫しだしたのはその頃らしいことが後から家福の「追求」から知られます。音は47歳で子宮癌で亡くなります。家福は妻の死によって、不倫の本当の原因を訊き出せずに終わったことから、その後の人生がそのことの「追求」になります。但し、嫉妬に狂うオセローのようにはならず表面上は理想の夫婦のように演技します。二人は俳優だからという設定ですが、本心を見せないことで妻の不倫は進み、夫は少なくとも4人が不倫相手だと気づきます。家福は妻と別れることを恐れてか不倫に目をつぶり、4人目の不倫相手の高槻という俳優に近づきます。それも音が亡くなってからの行動でした。亡くなる前に行動することは、「(演技が)技巧的すぎる」というのです。何が技巧的すぎるのか疑問を持ちましたが、音の技巧が加わるとややこしくなるという意味なのでしょうか、ここはぼくにも流石に分かりませんでした。
ともかくこの小説の最大の謎は、音がなぜ不倫を続けなければならなかったかです。1回なら女優という仕事ながら相手の男優とできてしまうかもしれませんが、続けるとなると夫に対してのリスペクトがなくなっていると見るのが妥当ではないでしょうか。ここでぼくの大胆な仮説を提案させてください。家福と音の間にできた子供が3ヶ月で死んでしまってから、音はもう子供は作らないと「宣言」」した時、どうして家福は自分の子供が欲しいと反対しなかったのでしょうか。女として愛する夫の子供が欲しいと考えたこともあったはずで、そちらの方に夫として頼むこともできたのではないでしょうか。あっさりと「宣言」を認めてしまったことで、音は本能の部分で家福に侮辱されたと感じたのではないでしょうか。だったら、子供を作らないセックスを夫以外の男として「仕返し」をしようと心の底の方で決心したのではないでしょうか。あるいは、夫は私を必要としないと感じたのかもしれません。この辺りは男のぼくの全くの推測です。
さて、不倫の原因は最後の場面でみさきによって「病」だと言って慰められます。あなたの奥さんはあなたを大事に思っていたから、大事でもない相手と単なるセックスをした(だからどの相手とも実らせないまま別れた)のよ、と。24歳の娘のようなみさきから、あたかも達観したかのような意見を父親のような家福に聞かせる設定が面白い、と思いました。終わり。