もうどこから引用したかも忘れてしまって、今日偶然にぼくのPCのデスクトップにあったテキストを開いて読んでみたら、吉本思想の根拠ともいうべき論点が簡潔に分かりやくまとめられていた。自分用のメモとしてここに掲載しておくことにする。
この体験思想を介した吉本の自立的知識人論は、こうである。
①世界をトータルに把握できる「世界認識の方法」を持つことが必要である。
②庶民が出征時に町内会の見送りを受けて「〈家〉からでてゆくとき、元気で御奉公してまいります」と挨拶する「紋切型」の重たさの意味を把握できる往還思想の構成が必要である。
そして、そのためには、「支配の制度」がある限り、その知識の認識方法および概念構成において、知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準を、時代とともに変容する社会的存在の自然基底としての大衆原像に置くことが必要である。
なぜなら、知識人は、この価値としての大衆原像から知識的に上昇し逸脱していく知識の自然的な往相過程に成立する概念だからである。
したがって、知識人の自立的思想は、その知識の自然的な上昇過程から再び意識的・自覚的に下降する還相過程において、価値としての大衆原像を、すなわち大衆の生活基盤である社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準を確定し、その経済的社会構成の時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題を、自らの知識に繰り込んでいくところに成立する。
このことは、「支配の制度」がある限り、高度情報社会下で言語的・映像的マス・メディアの発達によって、生活者大衆が、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなり、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場せざるを得なくなったとは言え、そうなのである。
また、そうした知識の往還においてはじめて、観念としての知識は、物質的基礎を得るのであり、そのリアリティを獲得することができるのであり、反体制的でもあり得るのである。
したがって、この知識の往還は、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙とは全く違う位相にあるものである。
他方で、③吉本は、敗戦時に、自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく在り方に、大衆の敗北の在り方を見たのである。
この吉本に依拠して言えば、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、知識人の知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、自立した生活思想を構成していくことが必要である、と言うことができる。
また、ここに、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民の世界的連帯の根拠と可能性があるのである。なぜならば、「歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすること」にあるからである。
(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」、『自立の思想的拠点』「情況とは何かVI」、『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」、『マス・イメージ論』福武書店)。