ブログ投稿を休んでまで学習に専念したいと思ったのが、どうしてヘーゲル哲学だったのか(なぜそれを選んだのか)という問いに答えなくてはならないと思う。そう自問して何となく思い当たるのが、これまでサルトルやニーチェなどの実存主義やキリスト教批判に馴染んできたのに対して、ヘーゲルが逆に新鮮に映ったかもしれないということだ。ヘーゲルは意識から出発して個人から市民社会や国家にまで哲学の射程を広げたことで、ぼくの意識に上らなかった市民社会の法律や権利の概念や公共性、共同体の概念などが新鮮に感じられたのだろうと思える。マルクス主義の場合も個人のままの立場から国家イデオロギーと対決していた気がする。何となく国粋主義をイメージさせる精神や民族という概念もこれまで敬遠していたものだ。ただ、それらを避けていては自分がいつまでも個人の枠から出られず、小さな人間で終わりそうな予感がしたのも確かだった。ヘーゲルは哲学や思想界に聳え立っている人物だ。その巨大な山を一歩一歩踏破したいという挑戦意欲が70歳を前にして、ふつふつと湧いてきた。それは自分が人生の終盤にいることの自覚から出てきたものだと今のぼくは分かっている。