戦争に反対するという命題に取り組むには、国家の本質が分からなければならない。戦争を国家が決意した場合は、国民は否応なく戦争に駆り出される。今のロシアとウクライナを見ていればよく分かる。現に世界はもう戦争が始まっていて、第3次世界大戦の可能性すら議論の対象に入りつつある。、、、世界が自分の認識能力を超えて突き進んでいく。こんな時に本当はのんびり本を読んでいる場合ではないのではないか、と一瞬反省する意識が頭の中を通り過ぎる。これまで存在論は哲学の問題だったから、ある意味呑気に構えていて平気だった。存在論は「在る」の現象学だとしてサルトルは哲学を始めた。しかし現実の「在る」は、生身の人間であるだけじゃなく、個人でもあるし公人でもあるし、市民、国民、日本人でもある。だったら国家も「在る」わけで、国家も哲学の対象にすべきなのだ。国家は国家権力を持っていて、軍隊を持ち、科学技術を駆使した武器を所有している。現代世界では何と言ってもアメリカの軍事力がその他を圧倒している。国家権力も軍事力もあるいは科学技術でさえ、哲学の対象であるべきだと思う。現代に生きるわれわれの存在論として構築されるべきだと思う。自分は日本国の一国民なわけだし、国家の本質が幻想という前に、(戦争として現実にある国家が現象しているわけだから)力としての国家を解体的に哲学する必要があるのではないだろうか?既に物理学では物質の最小単位に到達しているし、分子生物学でも「動的平衡」という概念の有効性が検証されているのだから、国家も学問の先端的研究成果を駆使して哲学すべきなのではないのだろうか?