これから自分の身に起こることを予測し、それの準備をすることができたら自分にとって最強な生き方になると思える。その予測は予感のようなもので、決して世界とか自然の動きなどではもちろんない。そんなことができたら預言者だ。自分の中の気持ちのほんの僅かな変化かもしれない。何となく自分がその方向に舵を切って、進みそうな予感がするだけのことかもしれない。
それは雄弁になる、ということだ。これまで自分は口下手で、人前で話すことが最も苦手としていた。それがヘーゲルの弁証法を身近に感じて、自分に取り入れられそうな予感がするのである。書くことはスラスラと進む感じを身につけている。話すことも書いたことをなぞりながら会話体に変換すれば上手くいくのではないかと思える。
これまで不可能と思えたことに挑戦することは、生きる理由になる。無口な男から雄弁な男になろう。地道な気が遠くなるほどの道程かもしれないが、諦めずに進めばいつか変化が訪れるだろう。
どうしてぼくは無口になったのだろうか。いつ頃から引っ込み思案だと言われるようになったのか。長い間の防衛機制がその性格を作り上げたのだろうが、それはこの歳に至るまで仕方のないことで、無理に直す必要もない、とある時から開き直って以来今日に来ている。でもヘーゲルの弁証法を知って直してみようと変な気を起こした。無口だと誤解されることが多いので損することも多いと思える。ぼくのことを知っていて了解済みの付き合いの中にいる間はさして問題とはならないが、初対面だと変に思われるに違いない。それはぼくも経験上わかっているから、初めて接するときは割と饒舌になったりできるだけ愛想よくしている。しかしそんな状態は無理をしているので長続きしない。だから聞き役に回って相槌を打ったり、気に入りそうな質問をしたりして場を繋いでいたりしていた。でもやっぱり根本的には無口なので、それを真逆の雄弁に変えるということをやってみたい。ぼくにとって雄弁な人は「他者」である。きっとぼくには無いものを持っていて、ぼくとは違う対処の仕方をしてきたことでコミュニケーション上の豊富な経験を持った人なのであろう。そういう自分とは違う人から学び取ることで、ぼくは無口から雄弁に代われるのではないかと思う。