開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

文学は何を達成するのか

村上春樹にしても、中上健次にしても、夏目漱石にしても、徳田秋声にしても、あるいはサルトル柄谷行人や多くの文学研究者も含めて、文学に携わるものがその出発からどんどん成長変化していきあるときピークを迎え、挫折の経験を乗り越え晩年を迎える、というような経験の内容と意味は何なのか? そういう興味をヘーゲル哲学に触れるようになって持つようになった。文学者や小説家の達成はどのような人間的叡智の経験知になるのだろうか?彼らの顔の表情はよく写真に撮られているように、我々凡人とは違う、深みに達しているように見える。そう言えば、現代の若者の顔がとても幼いように見えるのはぼくだけの印象だろうか。「ドライブ・マイ・カー」で、音の恋人の高槻を役者としての深みにかけると家福が評した時、文学の経験というものの差を指摘していたのではないだろうか?ぼくも若かった頃は、顔がのっぺらぼうだった。いい顔になるには、幾つもの挫折を乗り越える「内面」の闘いを経験する必要があると思える。