人生は欲望ゲームで自分の好きなことをやって楽しく生活できたものが勝ち、という「哲学」があるとする。何となく現代の平均的な(ぼくの周囲にいるほとんどの)人たちの生き方の価値観がその哲学に現れているように感じる。ぼくもその哲学に同調できれば改めて哲学を学ぶ必要はない。ぼくはどこかで違う感じがする。ゲームという刹那的な勝負が決まるシステムに、人生という長期的な領域との整合性がない、と思える。少なくとも人生の節目でいくつかのゲームがあり、会社員であれば社内での出世ゲームがいくつかあるだろう。有限ゲームではあるが、一人の人生でいくつのゲームがあるかは人それぞれだろう。この「人それぞれ」という応答は哲学に馴染まないと思う。なぜなら問題はそれで終わるからだ。回答が一つでなければ納得感や、分かったという実感や確実感に届かないだろう。その意味で哲学は問いと答えの整合性を証明する思考だと思う。ヘーゲルが精神現象学で目指したものは、哲学が科学に近づくことと牧野紀之氏はしている。しかし、現代世界は多様性が叫ばれている。どこまで多様であるのか限界はどこにあるのか、証明されうるのか?多様な多数のそれぞれは等価値なのか?ぼくには一つの中心的な「かたまり」があるような気がする。やはり哲学は科学に近づかなければならないと思う。まず、中心的な「かたまり」を学ぶ必要があると思う。それが哲学を学ぶ目的だと思う。