開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

ヘーゲル哲学が提供するドラマとは

以前のこのブログで、ヘーゲル哲学に出会ったことがぼくのドラマの始まりだと書いたことがある。ここではどんなドラマが始まりそうなのか「導入部分」について書いてみたい。「精神現象学」の序文のところで、ヘーゲルは自分の新しい哲学を始めることの自信満々の宣言や、世界そのものが新しい歴史を踏み出すのと同じくらいの壮大なビジョンを語っている。自分の哲学はカントやフィヒテ、また自分より先に出世したシェリングの哲学を乗り越えるものだと説明している。もう自分を越える哲学は現れないとも取れる絶対知に至る哲学体系が、その出発点ですでに見えていた。それこそ哲学という分野での最高のドラマであろう。ぼくはそのヘーゲルの熱気の千分の一くらいの微熱に当たって、自分のドラマが始まりそうだと感じたのだった。

ぼくのドラマはもとより哲学という学問にはない。それは流石に無理というものだ。ただ自分の人生というフィールド内ならば、哲学(的)思考を取るのは自由だ。ヘーゲルとぼくと共通する部分が一つだけある。このブログの読者の人がいたら気づいてくれるだろうか、、、それは、自己意識である。どんな人にも自分という意識はあるからだ。ヘーゲルは自己意識から国家や宗教まで意識の経験の旅を進めるが、ぼくは今のところ自分の人生内に留めておくことにする。でも今の現実社会や世界が戦争に向かうとなったら国家まで否応無しに、前もって国家にまで意識の旅を進めることになるだろう。それはともかく、平和な自分の周囲に限定しても市民社会については市民としての自己意識はすでにもっているはずだ。この市民としての自己意識は、何とも心もとなくあやふやになっているのがぼくの現状だから、とりあえずはぼくのドラマは市民としての自己意識の経験の旅をすることだ。