開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

竹田青嗣氏の「精神現象学」解説から

源氏物語」を原文で読めなかったばかりでなく、現代語訳でも理解できない箇所が多くて、ネット上に掲載された解説ブログの助けを借りてようやく解るという経験をしてきたぼくにとっては、「源氏物語」と比べようもなく難解な「精神現象学」も様々な解説を読まなければ理解が進まないのは当たり前のことだ。そこでこれもネット上に公開されていた竹田青嗣氏の「精神現象学」解説の文章を以下に無断コピペさせて頂いた。これを熟読して何とかヘーゲルの言わんとするところがイメージできた。尚、この熟読に際しては、加藤尚武精神現象学入門」で得た理解が元になっている。というか、竹田青嗣氏の解説で加藤尚武氏の言っていることも確認できた。

 

●「自己意識の自由」【章頭解説】

まず、もう一度ヘーゲルの「体系」の全体像を簡単に。世界は一つの「実体」(絶対精神=絶対者)。この「実体=精神」は自らの本質的な運動として「主体」(さまざまな生命主体、→ここではとくに人間の精神を意味する)を分離して生み出す。人間精神は「無限性=自由」という「精神」の本質を分かちもっているので、それが「意識」→「自己意識」→「理性」という必然的な展開を推し進めてゆく。「意識」は、単に対象を認知、認識するだけの「主体」とされるが、「自己意識」はいわゆる人間的な「自我の意識」と考えればよい。ヘーゲルのこの全体体系は一時代前の「汎神論」の枠組みで、もはや真面目に受け取る人はいない。しかしここで提示されている、いわば人間精神、あるいは「人間的欲望」の本質論は、近現代における人間思想として最高の達成を見せているといえるほどのものだ。以下、その要点を整理してみよう。


 まずヘーゲルはこういう。単なる「欲望」の本質は、他を否定して自己の自立性を維持すること(他を食べて自分を維持すること)である。人間的欲望の本質は、「自己の自立性(=自由)についての自己確信」、少しひねると「自己価値」についての「確証」の欲望である(「自己欲望」)。つまり、「ワタシは世界の主人公だ」「ワタシは立派な存在だ」という自己確証こそ、人間的な「自己欲望」の本質をなす。
 ところが、この「自己価値確証」は必ず「他者の承認」を必要とする。そこで人間の欲望は、必然的に、他者との関係の中でしか実現しない。言いかえれば関係的意識における諸形式をめぐる。この人間的欲望の展開のプロセスとしての諸形式として、われわれは、さまざまなものを列挙することが可能だが、ヘーゲルが、ここで取り出して提示しているのは、①「承認をめぐるたたかい」としての「主奴」関係。②「自己意識の自由」とその三類型、である。そして、この取り出し方がやはり卓越しているというほかはない。

①「承認をめぐるたたかい」→「主奴論」
ヘーゲルの『精神現象学』は、ふつう二重の読み方の軸を想定しておくと読みやすい。一つは系統発生的な観点、つまり、人間の歴史がどのような本質契機で展開して来たかという歴史解釈の流れとして。もう一つは個体発生的観点、つまり一人の人間がその「意識」(精神)をどのように展開させるかという流れとして。
この「承認をめぐるたたかい」は、記述の流れとしては、人間欲望は「承認」の欲望を含むので、それが他者関係の中でどのような形態を取るか、という箇所だが、ここで書かれていることの重点は、
ヘーゲルの歴史解釈にあると考えて読むととても通りやすくなる


 人間欲望は自己の自立性の確証を求めるが、それは他者との関係では「承認をめぐるせめぎあい」(自分のほうが上位に立ちたい)となる。これを歴史的な文脈で考えれば、見知らぬ他人同士(共同体どうし)は、つねに存在の自立性(=自由)をかけて死を賭した戦いを行なってきた、と考えることができる。この結果人間社会は、ほぼ例外なく「主と奴」という階層性を作り上げてきた。ここでは、支配階層たる「主」が人間としての「自立性」を確証し、「奴」はそれを喪失していると見える。しかし人間精神の内的な本質から言うと、「主」の「自己確証」は圧政と他の労働への依存によっているので、けっして本来的なものではない。むしろ「奴」のほうに本来的な「自己確証」の可能性が存在する。まず「奴」は死によって脅かされるという深刻な経験をもつことで、人間の実存の深い自覚の可能性をもち、つぎに「労働」の経験、すなわち自己の力を"外化"して自然を形成する、という経験によって、自分の内的本質を"表現"するという普遍性の契機を知るからだ。これが「主奴」論のヘーゲル的アクセントである。

②「自己意識の自由」→その三類型
 「自己意識の自由」はヘーゲル的コンテクストでは「主と奴」の次の展開とされている。つまり、古代的帝国的な「主と奴」の範型のつぎにギリシャ・ローマ(初期)の哲学流派(ストア主義・懐疑主義など)が現われ、その次にはキリスト教が登場するからだ。だから「自己意識」の章は、その全体が、古代→ギリシャ・ローマ→中世へ、というヨーロッパの歴史哲学と読んでよい。しかしもう一方で、ここを個体発生的な観点で、つまり思春期から青年期にかけての人間の「自己欲望」の範型論として読むことができる。おそらくこちらが現代の読者には焦点を結びやすいと思えるので、その力点で議論をたどってみよう。


 「自己意識の自由」のニュアンスは以下である。人間は、他者関係の中で自己の自立性と優位を確証し続けていることはきわめて難しい。とくに第二の自我が目覚める思春期以降は、「自己欲望」自身がとても強くなり、しかも他者関係の中でそれを作り出す術をまだ知らない。そのため人(若者)は、「自己意識」のうちで、自分自身の意識の内部で、自己の自立性・優越性(=自由)の確証を行なおうとする。これが「自己意識の自由」である。


「自己意識の自由」の三類型は1)ストア主義 2)スケプシス主義 3)不幸の意識。
1) ストア主義  日常生活の中では多くの人間の欲望がせめぎあい、各人がいわば「自由」の拡大を求めて争いあっているが、ストア主義は、この現実の欲望競争の諸関係をいわば純粋な自己意識へと還元しようとする。つまり、そういう欲望競争の秩序自体が、人間の意識が作り上げたものにすぎないのだから、これに超然とした態度を取りさえすればこれらの欲望に煩わされず、つねに自分の自由と平静を確保できる、と考える態度をとる。ストア主義の優位は、【自分だけ】がこの欲望競争の醜さと愚かさを【知っている】という点にある。自己意識はこの点に自己価値の優位を見出そうとするのである。


2) スケプシス主義(懐疑主義)  ストア主義が、外的現実に対し「内的な自由」を対置して自己の優位をはかろうとするのに対して、スケプシス主義は、もう一歩積極的な戦略をとる。スケプチストは、意識の運動の弁証法的性格を知っている。つまりそれは、まず、絶対的な真理などというものはこの世に存在しないという理論、つぎに、どんな主張も観点を変えることで相対化されてしまうという理論を武器とする。この武器によってスケプチストは、つねにあらゆる主張や理論の優位に立つことができると考え、それによって自己の自立性・優位性(=自由)を確保しようとする。


3) 不幸の意識  しかしスケプシス主義は、この一切を否定し、相対化する論理がじつは自分の主張にもおよぶことを暗々裏に知っているため、その優位にははじめから矛盾がある。そこで、この矛盾の意識の自覚的形態として「不幸の意識」が現われる、とされる。不幸の意識は、ひとことで言うと、
若者が、すでに存在する特定の強力な理想=理論に入り込むことである。ヘーゲルはここで「キリスト教理論」をモデルにして論じている。この箇所はかなり込み入っているが、大きくは、青年期的な絶対的「理想理念」への傾倒と熱中、絶対的なもの(理想)へ少しでも近づこうとすることからはじまり、自分のうちの醜い「自己動機」を自覚していっそうの自己否定を試みること、人間における現実生活への欲望と美しい理想追求との間に解けない矛盾が横たわっていることの自覚などを通して、自己意識は、結局この絶対的なものに届こうとする努力に挫折する、というプロセスが描かれる。


 この節の結論は以下である。 
 人間の欲望は、本質的に「自己欲望」(自己の自立性・優越性の確証)という形をとる。とくに近代社会では、この自己欲望は解放されるそのため、ある種の典型的類型を描く。その第一の形式が「自己意識の自由」、すなわち自己の意識の内側で、自分だけで、自己価値を確証しようとする範型。しかしこれらは結局のところ、「他者の承認」という本質的契機を欠くために挫折の運命を免れない。自己意識はやがてこの挫折の必然を自覚する。このときはじめて自己意識は、自己欲望の可能性のつぎの道すじへ踏み出す。それが「理性」の段階、何らかの他者関係・承認関係の中で自己価値を求める段階へと進み出る。

 

第二章 「自己意識」

A 自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること

 自己意識の「無限性」という本質から、自己意識は他者との相互規定的、相互関係的意識であるということをその本質としてもつ。またそうであるがゆえに、自己意識は「承認」ということのうちでのみ自己を展開させる存在である。

 1 承認の概念 【A】

自己意識が「他者」と向き合うと、二重の自己喪失をもつ。1. 自分は他者にとっての自分となる。2.他者は、自分にとっての他者となる(他者のうちに自分を見る)。
 自己意識は、自己性を取り戻すために、ここでの「他者性」を撤廃しようとする。これも二重の意味をもつ。1.まず他者の自立存在性を否定しようとする。2.しかしそのことでじつは他者にとっての自己、というものを撤廃することになる。
 この他者の撤廃の試みは、同時に自己にとって自己帰還の試みでもある。(さらにこれも二重の意味をもつ。1.他の存在の撤廃によって「自己自身」にもどろうとするが、それは
他者の自立性を認めることになる。)
 さて、ここまでは、「自己意識」の側の一方的な対他者意識のありかたを見てきた。しかし「我々にとって」は、この意識の運動(あるいは行為の関係)は、じつは双方向的、相互規定的なものであることが明らかだ。言い換えれば、ここではすべての行為とそれについての意識が双方的であり、そのことで相互規定的な意味をもつことになる。一方的な行為というものは存在しない。


 この人間関係の相互規定的事情は、すでにわれわれが「両力の遊戯」で見てきた事情と本質が同じである。ただ「両力の遊戯」では、運動の相互的側面がたがいに契機として、こちらと思えばまたあちらといった具合に対立的運動として展開されていくことを媒介していたのは、「自己意識」だった。 しかし、「承認」の運動では、媒介者(=「中項」Mitte)は、それぞれ対極の「自己意識」である。二つの自己意識が相対している場合の関係。それぞれ自己意識として「自己外化」を行なっている。 これがこの両項の関係を規定する。ここにはちょうど、二つ鏡の反照性といった関係がある。
 つまり、両者はこの運動の中で、一方で自己意識の本性として、自己が自己のみで自立した存在であることを確保しようとするが、しかし、もう一方で、自分の自己性が他者の自己意識によって存立するものであることをも了解する。こうして大事なことは、▼「両極は互いに承認しあっているものであることを互いに承認しあっている」ということだ。 これが「承認の純粋概念である。」k186


 こうして今や「承認の純粋な概念」、つまり、相互承認による二つの自己意識の統一のプロセスが考察されねばならないのだが、これを自己意識自身の経験の場面として考察してみよう。
 それはまず、相互の自己意識の不同、対立として現われる。つまり、一方的な承認をめぐる対立として現われる。

2 承認をめぐる生死を賭けた闘い 【A】

 はじめは、自己意識は、単なる「自分だけ」の存在。単なる「エゴ」(自我)として現われる。それは他者をもたず、他者と無関係。このような直接態では、自己意識にとって現われくる他者は、単に「否定的なもの」、つまり自分にとって本質的でない否定すべき対象にすぎない。
 しかし実際は、他者もまた一つの「自己意識」である。だから「自己意識」と「自己意識」が出会うとき、まずは対立的な関係として現われることになる。しかしここで両者はまだ「無媒介的」(つまり相互的の承認関係ではないので)、それぞれが自立した生命としての存在(=生き物)として相手に向き合うにすぎない。つまり、ここで両者は、まだ他の直接的存在の撤廃によって「自己自身」たるという絶対的な否定の運動を行なっていない(⇒相手を倒し否定することで、自分こそ自立した自分であるという「自己確信」の行為を行なっていない)存在として向き合っている。双方ともが自分の「自己確信」をもっているだけだ(つまり、それは客観的な真理とはなっていない)。そして自己意識にとってそれが「真理」であるには、自己存在の自立性が自分にとっての確信であるだけでなく、相手(対象)の方もそのことを認めるということが示されねばならない。しかしほんとうは、承認の真の概念から言えば、互いの「自己確証」の承認は、自らの確信としてあるとともに他者もまたそれを認めるという行為の、相互的な確証の関係を通してのみ可能となる、といわねばならないのだが。


 しかし、さしあたりこの段階では、「他者による自己確証」という純粋抽象の営み(⇒内的な自己意識の試み)は、自分が他にとっての「対象」であることをどこまでも否定すること、つまり、自分が「自己意識」たること以外のどんなことにも拘束されないこと、純粋かつ自由な自己意識であるためには生命にさえ執着しないことをも示すことでそうする、という形をとる。この営みはもちろん、他に対すると同時に自己に対する行為として示される、という二重性を含む。つまり、単に他の絶対的否定(死)がめざされるだけでなく、それは自分の生命を賭して、という仕方で行なわれる。こうして、それぞれの自己意識の「自己確証」の試みは、両者の「死を賭した闘い」という形をとらざるをえない。この闘いによってそれぞれは、自己存在の確証(=自己確信)をいわば客観的な「真理」にまで高めようとする。つまりそれを、“自他にとっての”真理たらしめようとする。自分は単なる存在ではなく、他を否定しつつ生きることにのみ汲々とする生命態でもない。むしろ、自分以外の一切のものが、意識にとっては過ぎ去っていく非本質的対象にすぎないことを確信している、絶対的な自己存在としての「自己意識」にほかならない。これこそが「自己確信」の真理だが、これを獲得することができるのは、ただ生命を賭けることを通してのみなのである。こうして、命を賭けない人間は一人の人格とは認められても、自立した自己存在としての確証と承認を得ることができない。そのために両者は、自分の命をかけて他の死をめざす。他者は、自己の現実にとっては敵対的な外的存在であるから。他者とは、じっさいには多様な仕方で規定された存在としての「意識」だが、自己意識はそれを、自分に対峙する純粋な自立存在、つまり絶対的に否定的存在として見るのである。


死を賭した闘いは、自己の「死」を賭して相手に死をもたらし、そのことで自己存在の確証をつかもうとする試みだが、じっさいは相手の「死」はこの可能性を取り去ってしまう。「自己確信」は、本来自分の確信だけでなく相手から承認によってはじめて成立するのに、死は相手の「意識」を消し去る絶対的否定であるからまさしくそのことが不可能になる。この行為は、「死を賭した」ことで絶対的な自立的存在たろうとしたという自分だけの確信は残るが、自己確証のために必要な承認のための「媒介項」を抹消してしまうのである。本来必要なのは、他の「意識」自身が自らを否定して、こちらの「自己」の自立性を承認するということなのに、相手に死をもたらしてしまえば、相手の「意識」の否定による承認の獲得ではなく、単に相手の存在の否定という抽象的な否定があるだけだからだ。「意識」の否定=撤廃とは、否定しつつ保持するという撤廃、すなわち「止揚」(アウフヘーベン)なのである。


さて、この経験を通して、自己意識は、自分にとっては純粋な「自己意識」だけではなく自分の「生命」もまた存在の本質的契機であることに気づくことになる。
純粋な自己意識にとっては、この「自己意識」の絶対性こそが自分の存在本質だと思えているが、「我々」の見地からは、この絶対的な自己確信はすでに(⇒さまざまな経験によって)媒介されたものにすぎず、じつは生命としての存在をもその本質契機として含んでいる。最初の経験(⇒おそらく自己意識の対峙の経験)によって、自己意識であることの単純な統一は破られ、自己は純粋な「自己意識」(対自の意識)と他者に対してある意識(対他の意識)とに分裂する。そしてこの「対他的意識」が、自分が単に「物として存在」する意識でもある(⇒相手から対象化される)という契機を自己意識に教えるのである。純粋意識であるということと、物として存在する意識であるということの両方の契機が、まさしく自己意識の存在の真理なのだが、両者ははじめは必ず、自己意識の中で二極に分裂し、むしろ対立的な形をとる。つまり、あくまで純粋かつ自立的な「自己意識」であることこそ本質的であり、「物」(生命)であることは非自立的かつ非本質的であると見なされる。こうしてこの段階では、(対峙しあう「自己意識」どうしは)、絶対的な「意識」として存在しうることがすなわち「主」であり、「物」的対象として甘んじることがすなわち「奴」であるような関係を作り上げるのである。

〔三 主と奴〕 
[ α 主であること]【A】

 主は、主奴の関係の中では、単に純粋な自己意識なのではなく、非自立的な存在である奴という「媒介」を通して、自立的な存在となっている。つまり、じつは主は、一方で自立して「意識」存在であるとはいえ同時に従属的な「物」的存在でもあるような「奴」という存在との関係を通して、はじめて自分の自立性をもっている。したがって、自立的な存在としての主がこの奴に対して取る関係のあり方も二重になる。そこで、主は、奴に対して、一方で欲望の対象たる単なる物として関係し、また他方で「物」的存在として自分を意識している存在として関係する、という二重の関係をもつ。
 主の奴に対するありかたをさらに言うと、それは一方で、(その意識において)直接的な自立的存在だが、他方でこの奴という媒介項を通してのみ自立的存在でありうる。この奴との媒介的関係も、ふたつの面をもつ。1. まず、主は自分自身の「自立的存在」を介して奴に関係する。というのは、主は、闘いの際、物に対する自分の絶対的な自立性を譲らなかったという点で、自分の威力を打ち立てたからである。つまり、主はいわば死の威力をもって奴に支配力をふるい奴を労働させる。2. 第二に、主は奴を介して物に関係する。すなわち主は奴の労働を支配し、そのことを通して物を自由に享受する。
 奴の方は、「自己意識」であるという点では一定の否定力を物に対してもつが、しかしその否定力は限定されており、彼はただ物に労働を加えることができるだけで、それを自己のものとすることができない。主が物への支配力をもっているからであり、主の方は、奴の労働を介して物と関係することによって、物に対する純粋な否定力、つまり直接の支配力をもつことができる。すなわち、奴の労働によって物の自立性を支配し、これによって主は物に対する一方的な「享受」をうることができる。
 ここでは、一方の絶対的な自立性の承認が成立しているように見える。というのは、奴は、一方で物への従属(⇒加工するだけで自分のものとならない)、他方で主への従属(⇒命を握られている)という両契機において、自分の非自立性を認めており、いわば一方的に主の絶対的な支配を承認しているからだ。すなわちここでは、まず奴の方が自ら自己の自立性を否定するということ、さらに奴が相手の絶対的な自立性を認め、まさしくその意志に自分の行動を従属させるということが行なわれている。こうしてここでは、「自己意識」の完全な自立性が承認されるのに必要な二つの契機が、欠くところなく成立しているようにみえる。


 だがじつは、この関係は本来の承認関係とは言えない。
この承認は一方的な承認にほかならず、真の承認関係に必要な相互的な関係が成立していないからだ。
 絶対的な支配をふるう主と奴の関係は、一見主の絶対的な自由の承認を完成させるかに見えるが、そうではない。この関係の中では、主の立場にある「自己意識」が本質的な自立性の意識を獲得することはできない。この主奴関係が成立するや、むしろ主は、自分の存在を非自立的な存在だと意識せざるをえなくなる。そして、はじめはそのようには気づかれないとはいえ、
むしろ自立的存在としての可能性をもつのは奴の存在であることが明らかになる。なぜだろうか。


〔β 奴の畏怖と奉仕〕【A】 
つぎに奴の「意識」としての側面をみよう。
 まず、奴は主人の存在のうちに完全な「自立存在」をみて、これを自分の真理(=本質)と見なして憧れているが、それはまだ自分の現実とはなっていない。しかしじつはある意味では、奴は本来の存在の自立性という真理(⇒意識の否定性と自立性という本質)を、潜在的に自分のうちに含んでいる。むしろ、真の存在の自立性の「契機」はかえって奴のほうに萌していると言える。そしてそれは奴が奴としての経験をもつことによって生じたものなのである。


 まず、奴は「死を賭した戦い」によって「死の畏怖」という絶対的な主人に服し、まさしくそのことで「自己意識の純粋な自立性」を深く自覚する契機をえたのだ。つまり、奴は、主奴の戦いで経験した「死の畏れ」において、日常におけるそのときどきの不安といったものをはるかに超えて、自分の存在全体に対する根本的な不安に震撼されるという解体の経験をもった。そのことで奴は、いわば
「自己意識」の純粋な本質、絶えず流動する絶対的な否定性という(⇒実存的)本質を感得したのである。(☆)この不安と畏怖から現われる自己の絶対的な純粋性という契機は、主には現われなかったものだ。また、奴の意識にとって、意識の絶対的な純粋性という契機は、自分のうちに存在するだけでなく(即自的に、あるいは潜在的に)、主という他者のうちにその自立性を見ているという点で「対象的」にも存在していると言える。]


さらに、奴は、単に「死の畏怖」によってて自己存在の解体の感覚を知っただけでなく、「奉仕」つまり労働の経験によってもそれを経験する。つまり、労働の経験によって、奴は、物に対するそのつどの欲望の執着を断念することを学ぶのである(●⇒ここは、労働によって、自然=物からの被規定性を克服する、という意味があるかもしれない)。

☆⇒ここはヘーゲルの実存感覚を示す箇所として興味深い。▼「即ち奴の意識は死という絶対的主人の畏怖を感じたのであるから、『このもの』又は『あのもの』についてだけではなく、また『この』瞬間又は「あの」瞬間にだけではなく、己れの全存在について不安をいだいたのである。かく畏怖を感ずることにおいて奴の意識は内面深く解消せられ(⇒「解体され」がよい。竹田)、心中動揺せぬところとてはなく、心中一切の執着を震撼させられたのである。」(→続き)「ところでこの純粋で遍ねき運動、あらゆる存立せるものの絶対的な流動化こそは自己意識の単純な本質、絶対否定、純粋の自分だけの存在(対自存在)であるから、この存在はこの奴という意識において、即してあることになるのである。」k194 意識の本質が絶対的な否定性にある、というのはヘーゲルにつねに現われる表現だが、これは第一次的には、意識がそれ自体としてもつ、自分を含め一切を対象化する思考の「自由」を意味する。このあらゆるものを否定しつつそのことで自体の本質を展開してゆくという意識の運動は、
人間の自己意識の本質でもある。


[γ 奴の形成の労働]【A】
 すでに見たように、奴が畏怖と主への奉仕によって自己の存在の絶対性を自覚するという契機が生じるのだが、それははじめはまだ潜在的なものにすぎない。この契機は、労働という経験によってはじめて現実的なものとなる。
 先の主奴関係では、物に対して自立的関係をもっているのは主であるように見えた。しかしそれはじつは奴の労働にって支えられているものでしかなく、その結果、主は物に対してただ一方的にこれを享受し、消費するだけである。物に対する主の享受と満足には、「対象的な側面」が欠けているのである。つまりそこには、主体が物に対して働きかけることで自己の自立を得る、という実質的な関係が存在しない。これに対して、奴の労働は物を「形成する」。労働は一方的に物を否定するものではなく、そのつどの欲望の抑制と消費の延期を通して物に働きかけ、物を形成する。そのことで労働は対象への否定の関係(働きかけて変形する)をその本質的な意味にもたらし、持続的な成果を生み出す。奴は、まさしくこのプロセスの中で、自己の否定性の自立的な本質を直観するのである。


 労働による事物の形成は、奴に、自己意識の純粋な否定的本質が具体的な対象として外化されうるものであることを教えるが、これはそのことにとどまらず、あの「畏怖」の意識をも克服するという契機を与える。というのはそもそも奴が「死の畏怖」によって脅かされたのは、物が支配しえない自立的な存在(否定的存在)として自分に存在していたからだ。しかしいまや奴は、この外在的な物を支配しうる力を学んだのであって、そのことで真の意味での「対自的存在」(自分だけで自立する存在)である能力を得ているのである。


 はじめは、奴にとって自立的存在は、他者としての主の姿として(対他的に)あり、畏怖においては、即自的(自体的に)あったが、いまや労働=造形という契機においてそれは対自的、自覚的にも存在しはじめる。物を造形することは、意識の本質が“外化”し定立されることだが、そのことで
その本質は自分によそよそしいものになるのではなく、むしろそのことを通してはじめて客観的、現実的なものとなるのだ。
 こうして、奴が主への隷属の道を通して、ふたたび自己自身の存在本質(の自覚)に還帰するためには、労働(形成) とともに、畏怖、奉仕という契機が必須のものであり、かつそれが普遍的な仕方において経験されるのでなければならなかった。奉仕や労働による形成という契機なしには、畏怖は形式的なものにとどまり、本質的な自覚にゆきつく可能性をもたない。しかしまた、はじめに絶対的な畏怖がなければ、物に働きかける否定性の本質をその場かぎりの生の必要を満たすだけの外的なものとなって、奴が自らの本質的な否定性を自覚し、自己存在を絶対的なものとして取り戻そうとする可能性をもたらさない。もしそうであるなら、そこでは絶対的な「概念」(⇒ここではことがらの本質)は普遍的な展開をとげず、労働による形成もただ、奴隷的技術のゆるやかな進歩ということ以上を生み出さない。

 

<元サイト:http://www.phenomenology-japan.com/kannzennkaidoku.htm