開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

哲学を学ぶと何がいいのか

ぼくが哲学に魅力を感じるのは、他人を恨んだり、羨んだりしなくなることだという気がする。徹底した自己責任と言えるかもしれない。そうかと言って他人に冷たいのではなく、他人は自分とは違う考えや生き方をするものだと芯から感じている。違っているからどんな人にも興味を持って接することができていると思う。ただ尊大な人間や勘違いしている人間には冷淡であるし近づかない。哲学が好きな人間は、四六時中考えごとをし、自然や世界や社会や生物や物質などを対象に、あるいは意識や時間や存在といった概念さえも対象にし、区別のカテゴリーを使って分析したり、面白い仮説を立てて思考実験したりする。ただ考えるにもきっかけが必要で、何の刺激もなく考えることはできない、つまり刺激があって気づくことができ、気づきから得られることを素材にして考えるのだ。また静止した対象も主体もありえなく、静止したように見える場合も「動的均衡」が働いていて、何かの拍子に動き出すと考えておかなければならない。まさに諸行無常であり、どんなに苦しい状況下に置かれていたとしても「夜明け」は必ず来るのである。ここで自分という存在を哲学的に考えてみたい。自分の今は知識の量や質に限界があり、未熟であって真理からは遠く閉ざされていると思う。だから見えていない世界や法則に無自覚的に囚われていると思う。知らないばっかりにおそらく損していることが山ほどあると思う。ヘーゲルが言う精神とは社会意識のことだと牧野紀之は解説していたが、ぼくという人間はこの社会意識に足りないところがかなりあるような感じがする。社会とは他人の坩堝であって、ぼくはこれまで他人を避けて生きてきた人間だという自覚があるからだ。ヘーゲル哲学を今になって関心が向き出したのはそういう事情があると、ぼくは自分を分析している。