開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

ヘーゲル読書を趣味とする

かつてサルトルが哲学のぼくの関心の中心だった。ぼくの学生の頃にマルクス主義に引き込まれ、政治的な動きが身近になった時に自分の立場をどこかに持つ必要があった。サルトルマルクスを最後の(のりこえ不可能な)哲学としていたが、マルクス主義が客観的情勢論から主体が自動的に要請されるような論理に思えたのに対して、サルトル哲学は個人の自由な思想の立場を提供するものに思えた。自分の参加や連帯を問う領域が拓けているように思えた。今中国では政府のコロナ政策に反対するデモに参加すること自体が身を危なくさせているが、ぼくの学生時代の状況はそこまでではないものの、身の危険はあった。だから中途半端な考えでいると自分が動かされる恐怖があった。ある場面では沈黙を守り通せる理由を持つ必要があった。というか実際は沈黙するしかなかったのが実情だったが。さて、思わず学生時代の回顧に戻りそうになったが、ここで考えたかったことはサルトルマルクスではなくて、ヘーゲルが今のぼくにリアルに迫ってきている現実についてだ。

ヘーゲルを少しは理解できるようになって初めて社会(近代市民社会)の本質が見えてきた、というのがそのリアル感の実体なのであるが、そもそも社会の仕組みが現実の重みを持って把握できていなかったという感慨がある。経済や個人や階級や国家といった概念の中に、市民社会が丸ごと抜けていた感じがするのである。だから権利や義務や法律などがどこか身に馴染まなかった。日本国憲法についても身についていなかったと思う。そんな意識状態で昔のぼくはよく社会批判めいたことを言っていたものだと、呆れるばかりなのだが事実そうなのだから仕方がない。ただヘーゲルを読まなければ社会批判をしていけないという意味ではもちろんない。しかし読めば自覚ができ、自分の判断に自信が持てるようになるというに過ぎない。これから死ぬまでヘーゲルヘーゲル研究者の本を読んでいこうと思っているが、それは英語学習と同じで趣味にしてしまえばいいということだ。