開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

今のこころの底を覗く

何か疼くものを感じる。ともかくも言葉に出してこの俺が見てみたい。誰かに告げたいとしたら、誰も助けてくれなかった苦しかった時の自分に遭って、よくお前がそこで頑張ってくれたから今があるのだと告げたい。今より会社員だったお前の方が何倍も強かった。やはり人間は能力があるから強いし、周りからも認められるのだ。少なくとも給料をもらえるほどにはお前には能力があったのだ。今頃になって気づいたのは、もうその力を失っているからかもしれない。今はもう働かないと決めた。その代わりに為すべきことがあるはずなのに、つかめていないことが今のぼくの内臓を疼かせているのだろう。自分で自分の能力が分かっていない、というのが今の現実だと思う。書くという能力は、一体どれ程なのか。それを試すのは小説なのか、詩なのか、エッセイなのか、翻訳なのか、評論なのか、、、。自分の正体はどんなものか。正直に述べてみよ。次第に定年後の今の趣味ばかりの生活に飽き足りなくなってきている。何事も飽きて来るのだ。いやそれなりに興味のある本はどんどん増して来る。だから手当たり次第に読み続けていけば、死ぬまでの間毎日続けることができるかもしれない。それでもいい気がする。どうだろうか。どうだろうかと昔からの自分に訊いてみる。それじゃ満足できないだろうとお前は言う。もう既に誰かが認めてくれることを期待してるんじゃないのか、とお前は言う。俺は既に社会人を経験しているのだし、社会から認められないことに耐えられるはずがない、とお前は言う。定年退職者というのは、社会から降りた人のことじゃなかったのか。如何にも。もう一度社会に出たい。ただし、会社員ではなく。違うやり方で小さく始めよう、、、

ここで誤りに気付いた。社会という言葉の使い方に誤りがあった。社会と自分を切り離して「外部」が社会だとしたことだ。あくまで私と接しているのが社会である。大きな観念となった社会を相手にしても無意味だということだ。例えば、今日お昼に妻とモスバーガーのドライブスルーに行って、そこの受付の女性がとても感じがよくていい気分になったのは、社会的に良好な接触だったと思える。小さなことでも社会と考えるべきなのだ。