開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

客観的という見方

Oxford Languagesによると、客観的の意味は、「主観または主体を離れて、独立の存在であるさま。だれが見てももっともだと思われるような立場で物事を考えるさま。」とある。

自分を客観的に見るということについて考えてみたい。自分がどういう人間かと思っているかに関わりなく、ぼくを知っている人たちの間でもっともだと思われる立場で、ぼくの人物評はどんなかという事が、客観的にぼくを見るということになる。まず、そんなことが可能なのかを考えてみる。ぼくを知っているということはぼくも相手が誰だかを知っていて、どれだけ的確に知り得ているかは分からないが、おそらく同程度に知っていると思う。ぼくだけが多くを知っていたり、知り合いのその人がぼくを多く知ってるということはないと思える。実際はそんな事もあるのかもしれないが、日常で知り合っている状況ではないと思える。それに、「だれが見てももっともだと思われるような立場」とは「日常で知り合っている状況」でのことだと思える。例えば、年賀状を出し合っている知り合いの間で考えてみると、知ってる程度は同等と思える。

ということは、自分が知っている相手から自分を見ている見方が、客観的な見方となるのではないだろうか?それをあまり聞き質すことはしないので、おそらくこんな風に見ているのだろうと推測するしかない。推測の域を出ないとしたら、それは的確な人物評になり得ないのではないだろうか。だったら客観も主観も大した違いにならないような気もする。

おそらく、「だれが見てももっともだと思われるような立場」とは、公的に認められている「尺度」を用いて見ることだと思える。例えば、大人しい、気難しい、明るい、軽率なところのある、横柄な感じがする、上目目線で見る、、、etc。しかしこれらも主観的だろう。社会的な尺度といえば、「肩書き」になるが、現在のぼくは「肩書き」がなく無職だ。しかし、個人的に知り合っている間では「肩書き」などあまり意味がない。そもそも狭いぼくの日常で知り合う関係の中では、客観的な見方は必要ないのかもしれない。、、、なんとも締まらないオチになってしまった。