今日は日曜日で、先月までは天候が良ければ午前中仲間と妻も含めてテニスなのだが、さすがに真冬並みの天気では中止になった。土曜日に読書会の例会があるので課題本を読んだり、野々市図書館の市民学習に関するレポートを提出するために、報告書に目を通したりという「仕事」をしていた。だから暇なのではなかった。でも何となく行く末に漠然とした虚しさを感じているようだった。これまでの孤独感のようなはっきりした心の状態ではない。何にもすることがない、したくないという定年後すぐの頃の無力感ではない。充実まではしていないけれどそこそこ上手く行っていると思っている日常なのに、あれっ、どうして、という感じなのだ。これからの「老後」の人生を思って虚しさを上手く飼いならすことには割と自信を持っていたはずなのに、何かがまだ足りないのだろうか。読書三昧だけでは物足りないのだろうか。、、、、書きたいという思いが募ってきているかもしれない。書くことで憂さを晴らすのをもっともっとやりたいのかもしれない。余計なことを考え出さないために書き続ける、という方法を本気で始めたらどうだろうという気がする。ヘーゲルは長大すぎて、今すぐ何かが実現されるわけではない。確かに読んでいて発見されることはあるし、大きな希望が切り開かれる思いもする。でもそれは自分の中の一つの部分が満足させられるにすぎない。読んでいる自分がすっかりその哲学にはまり込んではいないのだ。いわば対決しているわけで、対決している場は自分の外にある。小説の場合には、自分が丸ごと「その中」に入り込んでいる。それが日常の憂さを忘れさせてくれるのだ。例え虚構と分かっていても、自分の意識全体が五感も含めて働き続けるからだろうか。それが何となく生活したり働いたりという錯覚をもたらすのだろう。やはり文学に戻るべきか、、、