私人は一人で生きてきて、結婚して家庭を持つことなく一人で死ぬことを覚悟している人だ。公人は両親から生まれ家族の一員として生き、結婚して夫婦として生活し家族を形成する生き方をする個人である。私人は社会の価値およびシステムを無視、ないし軽視する個人である。私人は利己的に考え、行動し、それを徹底する。また社会的恩恵を利用し、恩を返すという発想を持たない。私といえば、かつて私人であり今は公人である。だから生活においては夫婦として考え、行動する。生物にオスとメスがあり、異性婚が正常であり同性婚は一部の変異とみなすが、社会的には許容する考えである。
話はここで飛ぶが、日本の古典文学を学ぶと、無常観が基底に流れていることが読み取れる。この全ては流れ、常なることはないという諦観が強くて、ずっと日本人を支配してきたと思える。それは突き詰めれば物質は運動していて、あらゆる瞬間に動的均衡状態にあることを示していると思う。ただし、全ては動き、流れていくからこそ、動かないものを人間は求める、ということも真理なのだ。そして動かない「最後のもの」が、哲学であると今日ぼくは深く認識させられた。