開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

小説を書くには

ひと世代上の小説家の先生から、小説を書いてみられてはと勧められたことをまともに受け取ってその気になっている。これまでも小説を書いてみようとしたことはある。その時に小説の書き方みたいな本を買い集めて読んでいた。読んだ順番に書き出すと、先ず丸山健二の「まだ見ぬ書き手へ」、次に三田誠広の「こころに効く小説の書き方」「天気の良い日は小説を書こう」「深くておいしい小説の書き方」、次にローレンス・ブロックの「Telling lies for fun & profit」、最後に島田雅彦の「小説作法ABC」である。村上春樹の「職業としての小説家」もこの部類に入るかもしれない。こうして並べると随分とあるが、ほとんど読み通していない。基本的にその頃は創作がどんなものか、興味本位に眺めていた程度だったと思う。書きたいという衝動には至っていなかった。小説を書くことの「中」に入っていなかったかもしれない。今は小説という表現空間に近づきつつある。何となく自分の内面に自分の分身が生まれそうな感じがある。その分身は同じく人間の全体性を備えている必要があるが、具体的な姿にはなっていない。自分から分離した、独立したキャラクターが設定されていない。どうすれば設定できるのだろう?本当はこれまで読んだ書き方の本の中にちゃんと書かれてあるのかもしれないが、そうすれば初めからまた読まなくてはならない。でも、島田雅彦の「小説作法ABC」に書かれてあったけれど、いくら書き方を学んでも小説が書けるとは限らない。丸山健二の「まだ見ぬ書き手へ」に書いてあったけれど、ともかく書いてみなくてはならない。

一つだけ言えることがある。小説をものすごく高級なものに考え、作家を必要以上に祭り上げて自分との距離を隔てるのはよくないと思う。そんなことしたら永遠に書けないだろう。ぼくは多くのことを知りすぎたかもしれない。小説の作法など知らずに書きたいように書けばいいのかもしれない。何も小説家になりたい訳ではない。そんなに小説家が魅力的で偉いとも思わない。思うのは自分と似たような人間を想像上でもいいから、生き生きと世界に登場させて自分の代わりに何かをさせたいということだ。何をさせたいだろうか?そもそも自分がやらなかったことを彼にさせることができるのだろうか?調べればできるとその先生は言った。それほど「調べる」というのはすごいことなのだ。今のぼくには、特定の人間の生涯とか業績とか性格とか思想とか背景とか時代とかを調べる情熱はない。ただ小説という世界の構造とか成り立ちの仕組みといった理論は知りたいと思う。ただし、自分という身体を離れた一般理論には興味がないということは経験上確かだ。島田雅彦の「小説作法ABC」には、一部そういうところがある。ローレンス・ブロックはあくまで自分の経験から述べて一般論にはいかない。その方が追体験がしやすい。

これはまだはっきりしていないので、もう一つ言えることとしてここで述べることはできない。確信になっていないのだが、言いたい気持ちがあってちょっとだけ書いておきたい。それはヘーゲルの数学に対する批判にあったのだが、数学はバラバラだというものだ。科学というものは哲学も含めて、あらゆる要素が全体につながっていて、孤立して存在することはできないというものだ。小説を書くということも、読むことや話すことや聞くこと、あるいは考えることや行動することと分離しない、ということだ。そして自分と他者、作者と読者もつながっているということだ。