開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

私またはぼくの誕生について

ブログに初めて私は、、、とか、ぼくは、、、とかで書き始めた時の新鮮な気持ちをブログを書いている人なら経験されていると思う。ブログじゃなくても実際は、小学校で絵日記や読書感想文などで「わたしは」とか「ぼくは」で書き始めているかもしれない。でも子供の「わたしは」や「ぼくは」には、主体の意識はなかったと思う。我思うゆえに我ありという感覚は、やはり孤独を経験した大人でなければ持てないのではないかと思われる。

でも他人のブログを読んでいて、あまり私やぼくはとはっきり主語から書いている人を見かけない。ネット環境では、自分を隠して言いたいことを吐き出している人の方が多いかもしれない。自分のことは棚に上げて言う方が無責任になれて気楽だからだろう。万が一攻撃されるのを避けたい気持ちもあるのかもしれない。

小説家にとって、私で書くか彼または彼女で書くか人称を使わず語り部のような黒子で書くかは大きな問題であろう。主観と客観という問題もある。自己と他者という問題もある。ぼくは小説家や評論家や研究者ではないのだから、それほど私という人称にこだわらなくてもいいのだが、それでもブログに書いている以上「私またはぼくの誕生について」考えてみたい。

ヘーゲルは終わってから始まると述べているが、それは終わらせてからでないと始まらないとも言える。ぼくがブログで初めて「ぼく」を登場させた時、何かが終わって何かが始まっていた。終わったのはそれまで送ってきた実人生の主語である自分であり、始まったのは実人生の中に「真実らしい」自分を発見して今を生き繋いでいこうとする自分である。今「主語」という言葉を使ってみたが、「私またはぼくの誕生」とは「主語」の誕生のことだったとはっきり分かった。この文法的に当たり前な「主語」の構造的意味が初めて自分の中に入ってきた気がする。「主語」という契機は、とても大事なことのように思えるが、これを読んでいただいているあなたはどうだろうか?