高校に入ってから世界文学全集を読みだして以来、小説の主人公に自分が入り込んでしまう病気にかかってきた。現実と虚構の区別が付かなくなる文学小児病なのだが、この歳になってもどこかにその片鱗が残っている気がする。何となく文学者の実人生が気にかかり、その影響を無意識に受けているかもしれない。どこを取っても凡人で際立った才能などあるはずもなく、ただ人生の流れのままに仕様がなく生きてきたぼくが、偉大な作家の真似をしようとするのは馬鹿げている。今日、「老いの愉楽_『老人文学』の魅力」という本を読んでいて、そこに紹介されていた作家の老境を迎えてからの作品に、自分の老後を重ねていたのだった。あのオウム真理教事件の後、仏教の原像を探る旅に出た五木寛之や、ムジール「特性のない男」の翻訳から老いてますます創作意欲盛んな古井由吉や、初期に職場小説を書き、中期に学生運動を描いた小説を書き、老いて「妄想の中の濃厚なるエロティシズム」小説を書いたと紹介されている黒井千次など。それぞれ自分の老いとともに小説やエッセイが「順行」して書かれる。それが確かに自然なのだろう。しかしいつまでも若いままの作家もいる。村上春樹や三田誠広や野間宏や中村真一郎や井上光晴や坂口安吾、そして埴谷雄高。こうして書いてみると、ぼくは作家は歳をとらないイメージを抱いていた気がする。そういえば、サルトルもずっと若かった気がする。ぼくは精神的にはいつまでも若いのが文学者、そして文学そのものだと思っていたことに気づいた。何となく今日読んだ本に違和感を感じた理由も分かった気がした。