せっかく昨日このブログに勇ましいことを書いたのに、それを今日事も無げに否定することを書くことになりそうだ。というのは、いくら自分が決意したことでも自分を含んだ客観的な法則には勝てないからだ。例えば、人よりマシな能力があるとしたら、これまでもっとも多く時間を費やしてきた経験の中にある、という法則だ。成し遂げられることは、それをやれると思って全神経と態勢をそれに焦点化しなければならない、という法則だ。ぼうっとしていたら必ず失敗に繋がる。失敗したら成功するまで繰り返せばいいけれど、長続きはしない傾向がある、という法則だ。目標のある人生の方が、すでに達成された状態を維持する人生よりも楽しい、という法則だ。
昨日のブログで、自分を捨てればいいと啖呵を切ったのだが、捨てた後の自分は淡々とは生きられないはずだ。そもそも定年退職後退屈しないためにやり始めたことを捨てたところで、退屈が戻ってくるだけだ。退屈を捨てることはできない。何かで埋める必要があるわけだ。目標は捨てることができるが、それとは違う目標をまた持たなければならない。
自分にとってマルクスとそれに関連した倫理的な事柄を捨てられるか、ずっと自身に訊いてみていた。今更捨ててみたところで新しい自分がどうなることか怪しいものである。その新たな自分を果たして好きになれるものだろうか?自分が死を前にしてよく生きたと言えることをしたい。それを目標にすることが最低限の条件だ。