文学を捨てるといいながら今日も小説を読んでいる。小説は他人の人生だから自分は何もしたことにならない、もっと自分の仕事があるはずだと自分を追い込んでいた。しかし厳密には他人ではない、もう一人の有り得たかもしれない自分だ。その可能性が近いほど小説内の現実はリアルに感じられる。小説を読んで追体験するというのは錯覚には違いない。それはリアルな夢とそう変わらない。もし好きな夢が見られるとしたら、空しいかもしれないが、現実が空しいなら夢でもいいから、冒険や挑戦や友情や恋愛のある人生を経験したいと思うだろう。いやそんな楽しみなら小説は娯楽と言われても仕方がない。ぼくはもっと研究に値する人間観察や思考・心理実験をそこに見る。だから読んで面白かったで終わることなく、面白いと思った内容を研究素材として再登場させなければならいのだ。そういう意味で批評や評論の役割があるのだろう。それがぼくの探していた仕事なのかもしれない。
もっと具体的に個人的な話をしよう。ぼくの高校3年になってしばらくたった頃を思い出した。ぼくはクラスメイトのAが好きになって、思い切って放課後校舎横の自転車置き場になっている通路に誘った。そして付き合ってほしいという理由について、ぼくの夢を語っていた。ぼくは新しい思想というものを作りたい。世間体やしがらみを超越して、自由に自分の人生を切り開いていける思想を先人の研究を通して、自分のものを作りたいと思っている。君と一緒に議論して作り上げたいと思っているんだ。Aはよく分からないなりに賛同してくれた。
あの頃の人生の取っ掛かりに戻って再構築したい。全て曖昧に投げ出されて、始まりすら形成されていないぼくの思想を今、作っていきたい。そのための文学批評や評論に挑戦したい。