開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

青春の存在論へ

ぼくの高校3年のその時は1971年で、昭和46年、18歳だ。何をその時喋ったかはもう思い出せない。ただ青春ドラマのような、好きだと告げるような場面にはならなかったような気がする。もっと一方的に、君のことをこれから名前で呼び捨てにしてもいいかと迫った記憶がある。Aは私のことは何も知らないでしょ、とは言わなかった。Aは後から分かってきてその時の態度を推量してみると、ずいぶん大人の対応だったような気がする。Aはぼくの逆上せを分かっていて、むしろ促すようにぼくと接したと思う。ずいぶん後になってAからあの時の感じを教えてくれたことがあった。あの時、結婚したくなったと打ち明けたのだった。思想的な、抽象的で謎のようなことを口走る男に対して、結婚してもいいと応答する女、という図式はどう表現したらいいのだろうか。今になってそれは誰と似ているのだろうと、考えてみたい気がする。自分のことを最大限に肯定してバカみたいだが、思春期中毒でもある頃を天才と自称する作家を知っているので、自分もその頃天才であったとしてみたくなったのである。思想家として名を成したニーチェルー・サロメの関係に似せるのはもちろん常軌を逸しているが、ぼくの上の世代で学生運動の活動家で若くして自殺した奥浩平と中原素子の関係だと近づくが、その関係のように政治的問題が絡んでいるわけではない。全く政治的環境が似ていないかというと時代が後ろにずれるが、似ていないこともないとは少なくとも言えそうである。「青春の墓標」という本があるので研究してみたいとは思っている。青春の存在論というのはどのような先行研究があるのだろうか。