I started thinking about breaking into my own fantasy swamp. Because it's an environment where nothing changes even if we spend it like this. I came up with the idea of coming to the exit of society and following my youth age from behind. Perhaps every political activist has appeared in the 20th century. And they ran too far in their spirit,The World Spirit. I think we should rebuild from around 1848 in Europe. The Enlightenment of spirit should teamed up with the poet again from the crucible of thought.We must create eternal charm and reason. "With a human charm instead of money" that avoids being obsessed with violence in a hurry. We have to come up with a reason to crawl up from the bottom of our soul. And therefore I will decide to get out of the current situation.
ほんの微かな力の芽生えを体内に感じている。こんなことはもうこの歳になってからは感じたことがない性質のものだ。それを突き止めてみたくて書き出したのだが、何かを書きたいという意欲も「その中」にある。書き出すと止まらない感じも少し感じる。心に移りゆくよしなしごとを書き綴ればあやしうこそ物狂ほしけれ、という感じとも言えるかもしれない。原因はわからない。急に湧いてきたのだ。夕方スーパーマーケットの駐車場で車の中にいた時だった。その感じに気づいたのは、周りの風景がいつもより生き生きと感じられたからだ。サラリーマンの時の、仕事の合間のひと時のようなリラックスした状態のように思われた。時が戻ったような不思議な感じだった。あの時、漠然と自分の来し方行く末を考えていて、自分の人生が目の前に広がって自分が車の運転席で映画を見るような姿勢になっていたように思う。映画の登場人物になって風景の中に入っていって、今のぼくとは違う生活を始めている、、、ぼくはまだ若い。これまで自分の青春の頃を回想して、忘れていた一場面を思い出したりはしていた。それは過去にいた自分だった。でも今感じたのは、過去の自分とは違って何も経験していない場面に出くわそうとしている。まるっきりもう一人の自分だ。新しい自分の「生」だ。、、、そうだった。思い出したことがあった。このブログにも書いたことがある。英語だ。英語で別人格になるという無謀な目標を立てたことを思い出した。この前から和文英訳を集中してやっていた。ぼくはできるだけその和文の作成者に自分を合わせようとしていた。自分が発した言葉のように思い込んで、答えの英文も自分の英語のように感じようとしていた。そのpracticeのおかげで少し頭の中が変化したかもしれない、、、。でも今のところその男は自分に似ているから日本人だ。職業は探偵のようなことをしているみたいだ。社会の裏にも通じていて、情報提供者も何人かいるようだ。探偵だとしたら依頼人がいるはずだが、彼は直接には誰だか分からない。何人も間にいて誰かは分からないようにされている。さて、どんな依頼が来ているのだろうか、、、
大学を卒業して兎にも角にも地元の小さな企業に就職して落ち着いてきた頃、高校の時に付き合っていたガールフレンドと住宅街の喫茶店で話すことがあった。彼女は金沢の文化センターで講師の口を見つけて、デザインを教えているということだった。その時もらった名刺のデザインがシャレていて、小さなものにも気を配ってデザインすると存在感が増すということが納得された。ぼくはといえば、あまり気の乗らない職場の様子を喋って話が盛り上がらなかった。久しぶりにあったのだからもっと大学時代のこととか色々話すことがあったはずなのに、彼女が何も訊いてこなかったこともあって、お互いの過去のことは何も話さなかった。話したのかもしれないがその覚えが全くない。彼女が好きな音楽のジャンルを訊いてみたら、女性のジャズボーカルだということだった。そういえば高校の時、野外のジャズコンサートに一緒に行ったことがあった。渡辺貞夫や日野皓正や菊池雅章などが出ていた。夕方から始まったコンサートで、帰りが遅くなってバスがなくなってしまって困っていると、スタッフのバスに乗せてもらえた。サインもしてもらって、彼女の家の近くの兼六公園下で降ろしてもらったことがあった。
ぼくにはその頃なんの夢もなかった。ピークの時代は過ぎて何も起きない日常をその日暮らしするしかなかった。仕方なしにその頃流行りだしたテニスやスキーを時間つぶしに始めていた。初めて県外のゲレンデで目撃した活況は、それまで冬眠するしかなかったぼくを幾分目覚めさせはしたが、スキーはそれほどうまくならなかった。話がそれてしまった。とにかくぼくは喫茶店で勢いよく話すことができなかった。彼女を引きつけてどこかに連れて行くことができなかった。
40歳を過ぎた辺りから心境の変化が現れ出した。このまま今の会社で打ち込める仕事がなく、やらされる管理下で給料のために働いていて良いのだろうかという疑問にとらわれていた。何か心に空洞ができた感じがしたかどうかは分からない。ローンで家を建てたばっかりだったし、転職の勇気はなかった。何か大事なことが会社勤め以外にあるのではないか、このままではその大事なことは体験できないのではないかと思われた。この状態を心理学で「中年の危機」というのであろうか?それは分からないが、多くの人が人生のこの辺りで立ち往生するみたいだ。ぼくの場合はそもそも今のようなブログ環境はなく、仕事以外のことで何かを考えるという事がなかった気がする。今は思い切って自分、自分と何でも果てがなく自由に書いているが、その頃は自分ということを考えてはいけない感じがしていたと思う。自分にかまけるという言い方があるように、自分のことを考えるのは青臭くて、恥ずかしいような感じがあったと思う。極端にいえば、無駄な考えなのだった。しかし、そうであれば随分肩苦しく、いつも世間体を気にして会社と家庭しかない、恐ろしいほど平板な人生を送っていたことになる。自分を見つめるという、中学生以来の自我の世界が中年になって必要になったのではないかと、今になっては振り返る事ができる。恥ずかしいことなんて何もない、と今では言い切れる。しかし、ぼくの中年の頃はそうではなかった。無駄なことはやってはいけなかった。人生のレースに取り残されるという漠然とした不安にさらされ続けていたからだ。
そんな時、小説が読みたくなった。夏目漱石や芥川龍之介、安部公房や三島由紀夫など普通誰もが読むような小説を読んで来なかったことに気づいた。どうして小説だったのか、歴史や心理学や社会学や評論などの啓蒙書ではなかった。欲しいのは知識ではなかった。フィクションでもいいが、体験がしたかったのだ。結果が分かるまでの、苦しみから解放されるまでのストーリーを疑似体験したかった。
ぼくと本との出会いは記憶を辿ると小学校6年生だったように思う。クラスに喜多さんという女の子がいて彼女からの影響だったように思う。何でもよく知っていて感心することが多く、いわゆる感化を受けたのだろう。学校にある図書館に初めてふらっと入って書棚を眺めていて、確か「風の又三郎」や「十五少年漂流記」やリヴィングストンの「アフリカ探検記」などを題名から想像して選んで読んだのが、ぼくの本の出会いになった。それらを読むと何だか自分が一回り成長して偉くなったような気になった。これで喜多さんとも対等に口をきけるようになったと思ったみたいだ。
さて中学に入るとその当時は坊主頭に強制されて、何となく読書の習慣はなくなり図書館にはほとんど近寄らなくなった。一回入って雰囲気が暗くて嫌気がさした気がする。中学3年間は本と縁が切れてしまって、その代わりビートルズやローリング・ストーンズやオーティス・レディングなどの洋楽に夢中になった。読書習慣を取り戻すのは高校に受かってからだ。徐々に成績が上がって進学校に受かって、そこで目標達成してしまったかのように慢心してしまった。ぼくとしては勉強以外のことで何かを探していたのだと思う。また本の世界が友達の部屋の世界文学全集がある本棚にあった。これを一冊ずつ「読破」することが目標になった。その当時のぼくのカバンの中には教科書より分厚い世界文学全集が一冊絶えず入っていた。
大学に入ると読む本が専門的になってくる。美大だったので初めて「美術手帖」や「季刊フィルム」や「遊」などの雑誌を読むようになった。どれだけ頭に入ったかは心許ないが、何が今の思潮なのかは漠然とつかもうとしていたように思う。それとマルクス関係の思想書を読むようになってからは、文学書も背伸びして埴谷雄高やランボーを無理して読んでいた。大学に入って「世界」にふれ、「現実」は対決する対象になった。この時、本は内発的なものではなく、外から要請されていたかも知れなかった。要請といっても興味がなければ読めないので、これも結果的には内発的だったといえる。
就職しても内発的な読書の時間は確保しようと努力はして、例えば辻邦生の「背教者ユリアヌス」や加賀乙彦の「湿原」や友人が読んでいた丸山健二はそのように読んだ。でもそんな抵抗はすぐに挫折して、仕事に関係するデザインやマーケティングの本を専門性をつけるために読み進んで行った。ある時ふと自分の人生が折り返す頃になって、本来の内発的な読書の習慣を取り戻そうと焦りを感じだして、高校の同級生二人と読書会を持つようになった。普通に本来読んでおく小説で読んでないものがかなりあることに気づき、夏目漱石や大江健三郎、川端康成、野間宏、大岡昇平、中上健次、安部公房、瀬戸内寂聴、海外文学ではヘミングウェイ、カミユ、サリンジャー、ジェームス・ジョイスなどを次々に読んでいった。あの頃は3人で一通り感想や解釈を喋りまくった後は飲み会になって、サラリーマン時代の楽しい思い出になった。
今でもこの「読んでおくべき本」という切り口は、読書習慣をどう作るかという問題では力を失っていないようだ。
企業内のサラリーマンという属性では、一方的にコントロールされる方になってしまう。だからサラリーマンから自己を分離し、一旦抽象的な個人になる必要がある。組織内の人間関係から独立した抽象的な個人を壁の内側に創ることになる。その頃インターネットが普及し始め、ネット上に個人のURLを持つことができるようになった。ラベルデザイナーとしてIllustratorとPhotoshopは最低限マスターする必要があり、1年間で独学で勤務時間以外のほとんどの時間を使って習得した。デザインや印刷関係は急速にデジタル化され、その流れについていけない写植屋や製版会社は廃業せざるを得なかった。SEOのスキルも独習し、ラベル・パッケージの部門内サイトのホームページは、「ラベルデザイン」で検索1位表示を獲得した時期もあった。会社のホームページはまだデザイナーが製作するという時代ではなく、興味を持った女性社員が手造りで作っていた。ぼくはデザイナーとしてデザイン室のホームページを別個に立ち上げたが、特別非難も受けなかった。経営陣は知識がないのか、価値評価できずに黙認された。社内ではDTPの分野で経営陣より優位に立てた。それが比較的自由な場を確保でき、「壁」も強固なものにできた。その頃は40歳代後半になっていたと思う。