開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

7年前との違い

f:id:hotepoque:20180516201112j:plain

2015年5月14日のFBから

全く久しぶりにFBに投稿する気持ちになった。会社で毎日働くという環境から脱して毎日何をしてもいいという環境になって、2ヶ月半ほどたった。ぼくが若い頃、哲学がファッションのようだったことがあり、ぼくはサルトルなどが好きだった。確か存在は意識に先んずる(実存は本質にの間違い)、というようなテーゼがあったかと思うが、今のぼくはビジネスマンとしてのあり方から遠ざかっているので、意識はどんどん学生の頃に舞い戻るということが起こっている。少し前までジョン・コルトレーンのCDを部屋で流していたが、すると意識は学生のころの雰囲気が音楽と共に漂いだす、、、、
ぼくは金沢に隣接する野々市市の住宅街に住んでいるが、全く動く人の気配がない空間を、ぼくの部屋から黒人のエネルギーがジャズにのせて塗り替えていくような感じがする。それにぼくの意識がリズムを取りながら動き出す。このようにして意識の場がぼくの中から抜け出し、今ここの空間と融合していく。
退屈したりブルーになったりすると、自分が置き去りにされているような感覚を持つが、音楽はそれを破って動きを作ってくれる。動きがなければ眠くなってしまう。

上の記事を書いてから7年弱が経っている。割と退職して間もない頃をふと振り返ってみたくなった。このブログを書いたときは今より虚しさがあった。部屋で一人コルトレーンを聴いて学生の頃を思い出していた。音楽がぼくの部屋の窓からこぼれ出ていく様を描きたかったのだろう。家の前の通りは人通りもなく、ひっそりとしていて寂しかった。7年も経てば、寂しさは薄められている。いつの間にか時が解決してくれたのだろうか?あれから随分取り入れて心を満たしてきたのだろうか?確かにあの頃とは景色が違って見える。全く同じ場所にいるのに、違って見えるのは何故なのか。今のぼくは環境を受け入れている。それがあの頃との違いだ。あの頃は環境に居たたまれなくなって、強引にコルトレーンのサックスで周りを「追い払おう」としていた。あの頃は眠くなるのに抵抗していたが、今は受け入れて眠ってしまう。昼寝は寂しさから逃れる一番手っ取り早い方法だ。今は手っ取り早く本の中に入ることも出来るようになったのも大きいかもしれない。ヘーゲル埴谷雄高黒井千次大岡信の本に。