開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

時代小説ぎらい

時代小説というジャンルでは、藤沢周平の「蝉しぐれ」と安部龍太郎の「等伯」、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」ぐらいしか読んでなくて、何となく馴染みが薄い。読んだ3作は決して面白くなかったわけではない。むしろ読んで良かったと思っている。でも何かがもっと時代小説に向かわせようとする気をなくそうとしている。理屈ではなくて好みに関わる何かが躊躇させる。一方、源氏物語は仲間を募ってまでして読み通そうとしていて、今丁度半ばまで来ている。古典文学と時代小説ではぼくの中で優先度が違う。その理由もよく分からない。現代作家が古い時代のことを調べて書くのと、書き手自身がその時代のことを書いたのが歴史的過去な場合との違いがあるはずなのだ。前者は自分が生きていない時代のことを書くのに対して、後者は自分の生きていた時代のこと書く。前者は書き手と読み手が現代なのに対して、後者は書き手と現代の読み手は歴史的に断絶している。どちらがリアルな小説かで言えば古典文学であろうし、どちらがリアルな読書体験ができるかで言えば時代小説ということになるだろうか。源氏物語でも橋本治が書いたものは「窯変 源氏物語」と呼ばれて、橋本治自身が光源氏に乗り移って書いたような小説になっている。これは寧ろ古典文学ではなくて時代小説になるのかもしれない。作者の紫式部をそっちのけで書いていると思われるほど自由に書いている。あるいは橋本治光源氏追体験するように書いたのかもしれない。でも橋本治は時代小説家とは見なされないだろう。時代小説に関しては、村上春樹村上龍、また大江健三郎が書かなかった理由にも何かがあると思っている。時代小説に向かうのはこの三人の純文学作家には禁じ手だったのだろうか?