定年退職後の回想の日々。自分という人間をどう捉えるか、判断基準を自分が設定するにはもう働く必要のない年金生活の環境がどうしても必要と思える。つまり溢れるほどの時間が必要なのだ。今日漠然と思えるのは、金沢市立大学という珍しい公立大学の、美術大学に進学できたことを両親に感謝しなければならないということだ。アメリカの知的エリートにリスペクトされた金沢出身の鈴木大拙のお陰か戦災を受けなかったことで、金沢の古い文化も破壊を免れた。加賀百万石の文化政策の蓄積もある。それらが金沢市が国立の金沢大学以外に大学を持つ理由なのかもしれない。ともかくぼくの学力と親の財力にして、金沢美大というのがほとんど唯一の進む道だったように思える。この美大という環境は、地方の田舎では金大と並んで知的な情操に触れられる貴重な場所だった。普遍的な美と知に出会うことが可能な、特権的な空間であり、そこに青春の感受力満開で過ごすことができたのは、ぼくの人生で最高の出来事だったと思える。そこで得た感受性がぼくの人格の価値判断基準を作っていると思う。この判断基準に照らして、定年退職後の現在から老年を迎えるまでの生き方を準備していかなければならないと思う。