開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

京極夏彦「オジいサン」を読む

定年後小説として、京極夏彦「オジいさん」を読む。主人公は72歳の独身男で、20世帯が入居する小さなアパートに住んでいる。自分が「オジいサン」と幾分幼いイントネーションで呼ばれたことが頭に残り、その発生源を思い出そうと寝床で記憶を巡らすところから始まる。出だしは極めて冗長でウンザリさせられるのも、72歳の独居老人の意識に忠実たらんとした文体なのかもしれなかった。作中の現在が72歳だとすると69歳のぼくの3歳上の主人公は、団塊の世代に属するものと思える。それは妙に理屈っぽくて、地デジに変更になるためにテレビの買い替えを勧める電気屋にしつこく絡むところに現れていると思った。基本は善良なのだが、一人静かに生きるために人付き合いは避けたく思っていて、アパートの住人のおばさんに振り回されたりすると腹が立ってくるのである。ごく普通の日常が描かれドラマは起こらない。そこがリアル感があってぼくには好印象だった。自分ももし独身未婚の独り住まいだったら、こんな風だろうと思われた。それだけに定年後夫婦二人きりのぼくの環境との違いが大きなもののように感じられた。ぼくは、自分でスーパー(作中では街の青果店になっていた)に買い物に行って自炊することもないが、増子徳一はいつまで立ってもぎこちない買い物と苦手な料理を繰り返している。登場人物が当然狭い人間関係の中で限られるのだが、小説に描き出されてみると意外と孤独感に悩まされている風ではなく、静かな日常の流れが感じられる。独居老人ではあっても元気なのである。最後には電気屋の主人が亡くなった後の二代めの独身男の父親代わりになって、家族の温かさに触れていくような終わり方になっている。悲観せず淡々と、理解されにくいユーモアを漂わせて生きる定年後の生活はそれなりに好ましいものだった。ぼくの「定年後小説」のリストに加えておこう。