黒井千次の小説は「春の道標」を読み始めた時、生理的に受けつけない箇所に出くわしてからもう読まないでおこうと決めたのだったが、「夢のいた場所」という作品が作家になってから自分のサラリーマン生活で出くわした体験をどうしても「総括したい」思いにかられて書いたらしいことを知り、もう一度読んでもいいかと自分に許した小説だった。どうやらこの小説家も女性にはモテるタイプらしく、高校卒の年下の同僚の恋愛相談の相手を引きつけてしまい、思わぬ成り行きで自分のものにしてしまう。また社員寮のおばさんと若い社員との秘密の同衾などの場面を描く時にも、決して突き放した描写ではなく微細なところで卑猥な表現も飛び出してくる。だから「春の道標」の時ほど生理的拒否はないものの、軽い嫌悪感はあった。でも全体にストーリーの運びは緊迫感があり、ある大企業の地方工場にある労働問題を取り上げ、主人公の小早川和夫を中心とした人間関係のドラマを安部公房ばりのシュールレアリズムを一部取り入れながら展開する筆さばきは見事だった。つまり十分面白かったのである。現実との距離感がいくぶんぼくと似ていなくもない気が、これまでの黒井千次の小説を読んでしている。それは貴重なことかもしれないので、その貴重さを確かめたくて他の作品も読み続けていく予感がする。