みんな自分のことは話さないし、書かない。それが礼儀なのだろうか?自慢話を聞かされると思って遠ざかろうとするのだろうか?このブログを公開して書き付けるという行為は、街頭に出てむやみに話し出し呼びかけるような変人のするようなことではないのだろうか?そこに表現という芸術に満たない意志形式が認められなければ、犯罪に近い迷惑行為になりかねないと思われる。小説や詩の芸術にまで高められない素のままの心情の発露ともいうべき行為は、果たして何にでもあり得ない無駄なゴミみたいな無価値なことなのだろうか。ぼくはといえば、もしそういうブログに接し得たとしてきっと面白がるに違いないと思える。
もうすぐ70歳の誕生日を迎える。特段急激に体力が衰えたとか本を読む意欲が減退したとかは感じられない。しかしあえて感じるところをいうとしたら、持続力がなくなったかもしれないと思う。ヘーゲルや黒井千次や小林秀雄など自分の思考力の養分になりそうな師匠に対して、より深い探究をと導かれようとするのだが継続せず、意欲はずれていってしまう。ヘーゲルは最近斎藤幸平がリバイバルさせようとしているが、「100分de名著」を見ていると、もう一つ深い理解に至らず何処なく距離を感じる。思想的な迫力がない。分断を合意に導く弁証法のチカラへの熱い思いが感じられない。彼は哲学者ではなく、経済学者なのであった。死ぬまでには「法の哲学」を読んでおきたいとは思う。小林秀雄は自立した人だと思う。デビュー作の「様々なる意匠」を読んでみたい。
誕生日を過ぎても読書だけは続けるし、書くことで今を刻んでいきたいと思う。読書を通じて一人でも多くの人と友人になれる機会を大事にしていきたいと思う。