ブログを書いていると書いている自分が何だか偉くなったように錯覚しているように思う。書くことで外に吐き出されるのだが、書いたことが自分に跳ね返ってきて自分にプレッシャーを無意識に与えているような気がする。あとで読み返して、そんなことまで考えてうまく書いていると感心することもある。なんだか後退はできないように感じてしまう。そういえばヘーゲルは思考を深めるには否定が必要で、端的に自分が死ぬことが必要だとどこかで書いていた記憶がある。もちろん物理的な死を意味するのではないが、一旦出来上がった形態は崩壊しなければ成長しないのは、植物や昆虫の生態を見れば明らかだ。人間も生物である以上は、植物や昆虫の遺伝子が人類の成長段階で組み込まれているとぼくなんかは考えている。話をまた大きくしそうだが、要は謙虚になることだ。自分は只の、何の肩書きもない、無名の凡人であるに違いないのだが、何となく偉そうにしていると自分でも思う。自分のこころの声を聴こうとしているのだが、それに忠実になろうとすること自体が傲慢なことなのかもしれない。昨日と今日、youtubeで小川洋子と島田雅彦の「人生に、文学を」という企画で行われた講演を視聴していた。流石に作家という人は自分の人生をつかんでいると感じ入った次第である。言葉の探求者だし、作品の読み取りもぼくなんかが及びもつかない域に住んでいる。当たり前の話だ。講演を聞いていてしばし共有される時間の、意味にあふれた話に時を忘れる経験は一体何をもたらしているのだろうか?でも、何か自分が偉くなったように感じてはいけないのだろう。