開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

魯迅著「狂人日記」を読む

「いまからはじめる世界文学アンソロジー」(三省堂)に収められている、魯迅著「狂人日記」を読む。この本の解説には、魯迅の処女作で、1918年、文学革命を主導する雑誌「新青年」に発表されたとある。この年の中国がどのような社会情勢であったかは勉強不足で分からない。でも辛亥革命後の混乱が相当ある中で書かれたことは想像できる。何しろ人肉を食べる自国史に目覚めてしまった「狂人」の身の回りの出来事が、被害妄想という医師の診断の元に医療研究の名目で公表されたことになっている。でもそれは当時の当局の検閲逃れの策だったかも知れない。

主人公は地方の官吏の家柄で、兄から論文の書き方を教わるくらいのインテリ家庭だった。何事も研究してみないと分からないものだ、というくだりが二度出てくる。おそらく中国古来の文献を漁っているうちに、「食人」の文化や故事などを目にしてしまったのだろう。それから被害妄想がどんどん進行していくことになる。究極の貧困状態兵糧攻めにあって人間の肉を食べてしまうだけじゃなくで、子が親の健康回復のために自らの肉を提供したという儒教的美談があったり、主君のために自分の妻の肉を献上したりしたという古代の歴史があったりと、これまでタブーであったことを知ったら、主人公のように疑心暗鬼になって周りがわからなくなるのではないかとも思う。この小説は一人称で書かれているから、主人公の身になって考えやすいということもあると思う。しかし、人肉を食べるという状況や被害妄想の当人に感情移入するのは普通無理だと思われる。

一つ疑問が湧いたのは、果たしてこの主人公は病気が全快したのだろうか。最初の説明文のところでは、「大笑いして」その日記が提供されたみたいなことになっていたが、最後の方にはキチガイ扱いまでされているので簡単には治らない気がした。現代の日本だと薬漬けになってしまいそうだ。ところでこの小説の被害妄想を何かのメタファー(喩え)として読む読み方もあるかも知れない。一人だけ覚醒していて、逆に周りの方が支配者の洗脳にあっているという社会状況だとしたら、歴史的に見たらその覚醒者が正しい場合も考えられる。発表された「新青年」の読者だったら、そんな読み方をしてリアルな感じを受け取ったかも知れないと思う。何れにしても、この「狂人日記」が世界的に有名な近代文学になっていることを思えば、単に被害妄想の日記、つまり気の触れた男の物語で終わりにしてはならないと思う。