今日、妻と県立図書館近くの洋食屋でランチを食べて先ほど自宅近くに戻って来た時、Fさんのご主人が庭仕事されているのを目撃した。ぼくと同じ定年退職されて、午後の時間をいつものように過ごされていると思った。ぼくの家には庭仕事となるほどの庭はないから、定年退職後の日課というほどのものはないのだった。日課というのなら近くの実家に母がいて、朝夕に薬を持って飲ませるのに通っているくらいのものだ。三ヶ月ほど前から頻繁に薬を飲み忘れるようになったからだ。でもその日課のおかげでぼくたちの生活にリズムが生まれたことも確かだと思っている。それはさて置き、どういうわけかFさん宅を通り過ぎた時に何だか満たされた気持ちがしたことに気づいたのだが、その感覚の中身が何なのか探りたくてこれを書き始めたのだった。
どうやら自分のまだ遠くにある死に向かって、何かを完成させるような「山」がぼんやり出来ている感じがしたようだ。ただ老後の長い時間を消費するだけではないような、自分なりの人生を完成させようとする意欲のような、一つの傾斜が感じられた。自分の人生の終わりのほんの片鱗を垣間見たような気になった。それははっきりとは見えないし、見えるようになるとも思えない。おそらく書くことをしなければ永遠に立ち現れないように思える。書き続けることで達しうる「山」のような気がする。ジョイスにとってのダブリンのような、魂のふるさと。徳田秋聲の文学の背景にある「文学のふるさと」。そのような情景がその「山」を越えたところに開かれている、、、
つまりは、完成させなければならない、ということだ。一つ一つ完成させて積み上げていくことが生きることなのだ。ジョイスや徳田秋聲というのは一つの山のことだ。なぜ、ジョイスと徳田秋聲なのかは今のところぼくの目の前に出現した二つの山なのだ。つまりは書くというより、読むことの方が先だ。読んで確かな高さを実感しなければならない。実感して自分の身の丈にしなければ登ったことにならない。