これまでぼくのブログは、自分のこころの声を聞いて書いてきた。こころに生まれている何か蠢くものを言葉にしたかった。それはもう一人の自分との対話という形式になっていた。一人の自分が話し出そうとして言い出せないことをもう一人の自分が積極的に聞こうとして言葉にしていた。そこでは基本的に二人だった。ところが今、ぼくの心の中で二人の自分ができて、対照的な二人が話し出そうとしている。聞き役の自分はしばらく黙っていることにしよう。
A;俺はここに来て平穏な定年後に飽きてきたようだ。このまま婆さんたちの相手をしてオシャベリを楽しむって詰まらなく思えてきた。
B;ほう、それは何か原因があるのかい? 70歳を過ぎてまさか日常に変化があったとは思えないがね。
A;俺は何だかずっと居眠りをしていた気がする。もう何も俺の人生に起こる事件はない、と思って昼寝を続けていた。ところが過去に起こった事件がある元新聞記者の回想録から蘇ることになった。その事件にどういう偶然か、ある時期に俺も関係していたとまでは言えないが、広い意味では、つまり事件的に関係したわけではないが、やはり関係があったと思う。
B ;何だか歯切れが悪いな。どういうことなんだ?
A ;つまり現実には全く無関係だが、想像的には関係があるってこと。間接的でもなくて想像的で、ということなんだ。例えば、村上春樹だって「海辺のカフカ」を書いて想像的にその事件に関係していたんだ。
B ;確かカフカ少年の母親が地方の図書館の女館長で、その夫が学生運動に巻き込まれて殺された設定になっていた記憶があるが、、、その時の事件がその事件ってわけか?それにお前も想像的に関係していたわけか?
A ;そうだ。しかし、想像的な関係って言っても単に「海辺のカフカ」を読んだという関係よりは強い関係だとは言える。村上春樹はW大出身で、そのW大のW祭の時に友人とぶらついているとスパイと間違えられて拘束されかかったことがあったんだ。幸い誤解はすぐ解けたが一瞬凍りついた経験がある。あれはその事件の余波であったと今では思える。
B ;へえ、それは物騒な経験をしたんだな。1973年のことだったな。そう言えばお前は今になってもその当時のことが忘れられずに時々ブログに書いていたものな。でもそのブログも段々定年後の日常に埋没しつつあったのに、なんで今更舞い戻るんだ?
A ;それは樋田毅という人が去年「彼は早稲田で死んだ」という本を出したからだよ。