開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

香港の旅の印象

今朝寝苦しい寝床の上で夢のつづきのような状態で、書きたい意欲が戻ってきていることに気づいていた。はっきり意識されているので確かに目覚めているはずだと思ってみるとそれは夢だったということが過去にあって、今日も夢の中で書く自分が蘇ってきたのかもしれなかった。ここ最近のどれくらいの間なのか、はっきりしないがブログを書く意欲がなくなっていた。そればかりか本も読めずにぼうっとしていることが多かった。気づかないうちに老人性の痴呆症に傾斜しつつあったのかもしれない。そうだとしたら危機に陥っていたのかもしれないし、自分を見失ってしまっていたかもしれない。あるいは、大げさに感じやすい癖でそう思っただけで、このところの暑さにバテていただけかもしれない。ともかく今は書きたい意欲があるのは確かだ。ただ何を書きたいかは分からない。書くことで自分を前に進めたいし、この停滞から何処かに飛び出したいと思う。まだまだ人生は長いし、世界は果てしなく広い。

昨日は少し本を読む気になって、このところ読書会で取り上げる「無難な」「平均的な」「そこそこの」小説ばかりが身近にあってそれが詰まらなくなって、本来の自分の趣味に帰ろうと辻邦生の分厚い「パリの手記」を読んだ。辻邦生の文学修行ともいえるかどうかは分からないがともかく無謀な船旅の全てを書き綴ろうとでもするように、詳細に一人旅の様子が記録されている。昨日読んだところはまだまだ序の口の、香港のヴィクトリア山辺りの散策が描かれていた。その筆致を感じてもらうために抜き出してみよう。

香港の印象(続き)急坂を登ってゆくと、やがて店は終り、右にアパートの群、古びて壁は汚れ、窓は崩れかかっている。はだしの子供たち、路傍に腰をおろす老人、女たち。とあるアパートとアパートの間の地面には、女子供であふれ、洗濯物がその路地の上に、幾つも吊り下がっていた。子供はわめき、走りまわり、女たちは地面に座って子供に乳をやったり、喋ったりしている。繁華な通りでも、ここで聞こえるのは、中国の物悲しいメロディを流すラジオの音である。

この一角を過ぎると、坂の右手に広い敷地をテラス状に築いて、八階建の新しい近代的なアパートが四棟建っている。一棟の大きさは、日本のそれの三倍もあろうか。一階は自動車の車庫になっており、二階以上の住宅には、窓という窓に、鉢植がおかれ、清潔な光で窓ガラスが光っている。振り返ると、今まで登ってきた道が、下へ下へと細くなり、町並の中へ消え、その向こうに、香港湾が、緑に輝いている。大小の船が平らに輝いている水に浮かんでいる。モダンなアパートをぬけてゆくと、ヴィクトリア山の茂みに覆われた山腹は、もう目の前に迫り、突き出た丘の上に、イギリス風の柱とバルコンを持った洋館が、灰色に、木立の中から現れてくる。道路の掃除人が働いている。舗装は完全で塵ひとつない。建物を壊しているところが多く、煉瓦の崩れた工事場、歯の抜けたあとのような取りかたづいた空き地がいたるところにある。

読んでいると情景が浮かびぼくも一人旅をしている気分になる。こんな長大な旅行記を味わって読めるのは、定年後のこの時期にしかできない贅沢かもしれない。