ぼくはこれまで、文学者と小説家は違う人種だとは思わなかった。むしろ、小説家は文学者の一人で同じだと思っていた。ところが、今日小林秀雄の「考えるヒント」所収の「ヒットラアと悪魔」を読んで、小林秀雄は文学者だと確信して、文学者というのは小説家とは全く違うと思ったのだった。小林秀雄はヒトラー(ぼくにはヒットラアよりこの方がしっくりくる)の悪の本質を的確につかんでいて、それはドストエフスキーの「悪霊」に登場するスタヴォローギンと同じだと喝破したのだ。ぼくはこれまでヒトラーのナチズム研究の本を読んでいたが、それは知識を得るだけだったのに対して、小林秀雄の言わば文学的把握に対しては震撼させられた。悪の恐ろしさや侮蔑のおぞましさは研究者の認識では得ることができない。悪を民主主義の危機などというカテゴリーで捉えてもほとんど本質的は把握に至らないと思う。
ところで小説家は自分のことで精一杯であり、むしろその自分の井戸を深く掘る人だと思う。どんな時代小説家であってもヒトラーを描けないと思う。ドストエフスキーが20世紀に生きていたら描けるかもしれないが、「帰ってきたヒトラー」のような風刺小説ではなく、ヒトラーの悪に自ら染まりながら描ける作家はいないと思う。(ぼくの主張は否定されるかもしれないが、小林秀雄のヒトラー認識を超えられるかは否定的にならざるを得ない。)ちなみにぼくの感想が物足りないばかりなので、以下に一部引用する。
、、、バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺るがなかった彼の政治闘争の綱領である。彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている。