何事も考え方が大事である。考えに基づいて行動するからだ。人生目標を立てて定年後の人生を送ろうというのも、そのスキームに従っている。そしてその決断にもある考え方が存在している。それは感情にまで降ろされた本能に近い考え方だ。それは、ぼくの場合、自分をドラマの中に置くという考え方だ。自分を主人公にしたドラマを作ることが、自分の本能に結びつける方法になる。
どういうドラマを描くか、をまた考え続けなければならない。そうすると結局ずっと考え続けて行動できないじゃないかとなるが、実際はこれまでに蓄積されている考えで行動しているわけで、ドラマはそれを少し修正できるだけかもしれない。ただ修正できていればよく、漫然と考えが固まってしまうのは良くないと思う。思うに、自分の場合は明確な分かりやすいドラマには馴染めない、ということは確かだと思う。大谷翔平や松井秀喜のような身体能力はないから、スポーツアスリートのような頂点を目指すドラマは作れない。また物理や数学の才能もないので学者としてのドラマも作れはしない。自ずと自分の身の丈にあったドラマしか作れそうにないことが分かる。しかしそれでもドラマを描くことのうちには才能が必要になることは確かだ。
要は地味で平凡で何も起こりそうにない自分の道をドラマに仕立て上げる才能が必要なのだ。コツコツと小さな事を積み上げてゆくドラマを作ってみよう。できるだけ細部を疎かにしないドラマを描きたい。それはほとんど日記に近くなるのではないだろうか?今日何をしたか、それを私小説のように書いても始まらない。でもとにかく書いておこう。
今日は明日行われる、源氏物語を読む会に向けて、「若菜 上」の巻を読む。他の巻に比べると圧倒的に文章量が多い。光源氏の絶頂期で、紫の上に微妙な影が芽生える時期になる。谷崎潤一郎訳をなんとか読んでいる。ここまで続いていて(54帖中34帖)、読んで意外にリアルに当時を再現できるので面白く感じている。ついでに言えば、源氏物語は光源氏を本能に結びつけることによってドラマが進む物語だ。