開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

小説を小説だと思って読むな

小林秀雄の「読書について」の中に、作家志望者への助言として五つの注意事項をあげていて、「小説を小説だと思って読むな」は五番目に書かれいる。作家志望者だから自分も小説を書こうと修行中の人間に、親切な具体的アドバイスを述べていて、最後に留めのように釘をさすのだ。ちなみに、1は「つねに第一流作品のみを読め」2が「一流作品は例外なく難解なものと知れ」、3は「一流作品の影響を恐れるな」、4が「もし或る名作家を選んだら彼の全集を読め」である。これらは作家志望者でなければ実行不可能な要求かも知れない。単なる一介の読書愛好家が目標にするにはバーが高すぎるのは確かと思える。特に2の難解な小説は、分かりやすさを求める読者にはそこで聞く耳を持たなくなるだろう。

さて「小説を小説だと思って読むな」は、作家志望者が陥りがちな現実感覚、生の現実が見えなくなる事への警鐘なのだ。短いからその部分を全文書き出してみる。

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起こる。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学ができるのだと信じている。事実は全く反対なのだ。文学に何ら患わされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体が分からない。

最後にいつまでたっても小説の正体が分からないと言われれば、大概の人はたじろぐのではあるまいか。小林秀雄にはこのような物言いがよくある。しかしこの人には小説の正体がはっきり見えているのだ。その確信をなかなか教えない。ぼくが推測するに、ここにはランボー体験があると思う。詩は小説と言葉の使い方が違うが、言葉と実際の現実との関係性を深く探っていくと、表現の持つ心の解放性みたいなことの体験がある。そのあたりを世間と文学の世界という言い方でさらっと述べているのだ。何を隠そう小林秀雄自身が、ランボーにかぶれて現実が分からなくなったので、自身の経験から間違いを犯さないように親切に忠告しているのだと思う。(ここで言っている世間にネガティブで俗っぽい意味はないと思う。)