小林秀雄の「読書について」を読む。小林秀雄は小説を読んで得るものが何かについて深い見識を持っていた。読書会に参加して数年関わるようになって、読書会の会長になって読書については積極的に推進する側になっているぼくにとって、この本で小林秀雄を身近に感じるようになった。つまり、「読書について」で述べられていることは読書会のことを言っているように感じられた。批評家といっても、あるいは思想といっても読書をすることから離れて成り立っているわけではなく、一般の読者から一本の道で繋がっているのである。その一本の道は決して平坦なものではないが、同じ道をたどることになる。だったらどんな道か歩いてみるべきだし、その体験を読書をする人たちで分かち合うべきだとぼくは思った。「読書について」所収の「読書の工夫」と題するエッセイの結論には以下の文章がある。
読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。読書もまた実人生の経験と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が目覚めて対していなければ、実人生の経験から得るところがないように、書物からも得るところがない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者もまた小説を読む事で、自分の力で作家の創るところに協力するのである。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。
ここで述べられていることが鍵だと思われた。読者も作家が創るところに協力するのであり、それは作者とともに実人生の経験とは違わない経験なのだ、と言っている。そういう態度で読書をすれば、実人生から得るのと変わらない体験をするのだということなのだ。おそらく小林秀雄のランボー体験やドストエフスキー体験やゴッホ体験は、そういう読書によって得られているのだろう。ゴッホ体験ではゴッホの手紙などの文章を読むことに加えて絵画の鑑賞にも「読書法」が入っている。
ぼくたちは小林秀雄の読書法を通じて、その気になれば批評家や思想家の道を歩むことができる。